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【特集:再生医療の未来】
再生医療の展開と倫理面を中心とした課題

2019/06/05

  • 安藤 淳(あんどう きよし)

    日本経済新聞社編集委員兼論説委員

2019年は後々、「iPS細胞による再生医療が本格的に立ち上がった年」として記憶されるのではないか。慶應義塾大学による脊髄損傷治療をはじめ、大阪大学の心臓病治療、京都大学のパーキンソン病治療など、いくつもの臨床応用の開始が宣言されたからだ。

山中伸弥京大教授が2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した後、講演のたびに会場から「iPS細胞はいつ、実際の治療に使えるようになりますか」という質問が飛んだ。山中教授は真剣な表情で「まだ10年、20年先になると思います」と答えていたのを思い出す。気づいてみれば、その頃の「10年先」はもう目の前に迫っている。

再生医療の本格普及へなおハードル

だが、こうした再生医療で少人数の治療が始まることと、その治療が「当たり前の医療」として広く普及することとは次元が異なる。多くの患者が恩恵を受けられるまでには、乗り越えるべきハードルは多い。

再生医療研究はiPS細胞が登場する前から、さまざまな方法で試みられていた。なかでも、医療にブレークスルーをもたらすとして期待を集めていたのは、受精卵から得られる「万能細胞」として知られる胚性幹細胞(ES細胞)だ。体のあらゆる組織に成長できる能力をもつため、移植用の細胞や臓器をつくるのにうってつけと考えられ、臨床応用の計画も複数あった。ただ、この細胞は作製する際に、生命の芽生えである受精卵を壊さざるを得ないという倫理的な問題を抱えていた。ローマ法王や、米国のブッシュ(息子)大統領がES細胞研究に異を唱え、米連邦政府は研究予算を一時、出さなくなった。iPS細胞が多くの医師や研究者、患者らに熱狂的に受け入れられたのは、皮膚や血液の細胞から容易につくれ、利便性に優れていることに加えて、受精卵を壊さずに済み、倫理的なハードルがなくなると考えられたからだ。

確かに、患者本人の細胞からiPS細胞をつくり、それを病気の治療に必要な細胞や組織に成長させてから、本人に移植する方法なら倫理的問題はほとんどなさそうだ。しかし、理化学研究所の髙橋政代プロジェクトリーダーが2014年に患者自身のiPS細胞を使って実施した、加齢黄斑変性治療の最初の臨床研究からわかるように、この方法は準備に長い時間がかかり、コストも高くつく。iPS細胞による世界初の再生医療だったこともあり、細胞のゲノム解析などによる徹底的な品質チェックを迫られたため、1人の治療に1億円程度かかったとみられている。これでは、普及は難しい。

なぜ、そこまで厳密な品質チェックが必要なのか。iPS細胞は血液や皮膚の細胞に初期化因子として働く複数の遺伝子を入れることで、容易につくり出され、条件さえ整えれば無限に増やすことができる。よく言われることだが、この増殖性はがん細胞に似ており、何かのきっかけで暴走を始めれば、望まぬ腫瘍やがんの発生につながりうる。iPS細胞からつくった神経や心筋などの細胞が腫瘍化し、周辺組織を圧迫したりがんになったりするようなら、取り除かなくてはならない。ところが、こうしたリスクをいかに低く抑えるか、言い換えれば何をどこまで調べればリスクは十分に低いと確認できたことになるのか、明確な「ものさし」がない。結果として、臨床に使う細胞は安全策をとって、ゲノムの網羅的な解析までしている場合が多い。多くの研究者は、心の中では「そこまでする必要はないのではないか」と思っているにもかかわらずだ。

どんなに調べても、リスクがゼロということはあり得ない。最終的には病気が回復に向かうベネフィットと比べて、リスクが十分に小さいと判断できれば治療に踏み切ることになろう。それでも、万が一、問題が起きれば「それ見たことか」「人体実験だ」などと批判が起き、再生医療にブレーキがかかってしまう恐れがある点は認識しておかなくてはならない。

臨床研究の積み重ねと並行して進める必要があるのが基礎研究だ。そもそも、iPS細胞という不思議な細胞がなぜ、できるのか。さまざまな組織へと分化誘導が進むプロセスはどのように決まるのか。科学的な解明は済んでいない。国際幹細胞学会(ISSCR)の学術講演などを聞いていると、このあたりの原理やメカニズムに関する発表が数多くある。細胞の性質や分化のしかたについて理解が進めば、腫瘍が発生しないよう、確実にコントロールできる手法も見えてくるはずだ。

一定の品質をもつ細胞を、少しでも低コストで使えるようにするための有力な方法としては、あらかじめiPS細胞をつくり、厳重な品質チェックをしたうえで備蓄しておくやり方がある。これらの細胞は他家移植用となる。山中教授らが京大iPS細胞研究所(CiRA)に整備中の「iPS細胞ストック」はこうした発想に基づき、国の予算を受けて整備している。日本人に多い免疫タイプの血液細胞から、あらかじめつくられたiPS細胞を備蓄してある。これらは拒絶反応を起こしにくい。

理研の髙橋プロジェクトリーダーも、2017年からの新たな臨床研究で、CiRAのiPS細胞ストックの細胞を使っている。必要な時に網膜色素上皮細胞に育て、注射によって患者に移植する。治療費は最初の臨床研究に比べ、1桁以上、下げられる見通しだ。まだ高いとはいえ、多少は手の届く範囲に入ってくる。慶應大の脊髄損傷治療や、京大のパーキンソン病の治療も、同じくCiRAのiPS細胞ストックの細胞を使う。

だが、このようにうまく治療計画を組めるのは、まだ一握りの研究者にすぎない。iPS細胞をはじめ、再生医療用細胞の原料となる、おおもとの細胞の入手ルートが極めて限られていることが一因だ。現在、国内で臨床研究や、医薬品医療機器等法(薬機法)に基づく承認取得をめざした臨床試験(治験)で、ヒトに移植する目的で使えるiPS細胞を供給しているのはCiRAだけだ。日本赤十字社をはじめ、信頼できる限られた機関で採取した血液をもとに、iPS細胞をつくっている。細胞調製施設(CPC)を増やすなど生産体制を拡充したが、今後のすべてのニーズに応えていくのは難しいとみられる。たとえば、研究段階で細胞を動物に実験的に投与するため、ヒトiPS細胞が必要な場合などもあるだろう。CiRAほどの高品質は求めず、もう少し手軽に入手したいといったニーズは多いとみられる。海外では早くから民間企業が細胞供給ビジネスに参入し、米セルラー・ダイナミクス・インターナショナル(現・フジフイルム・セルラー・ダイナミクス)やスイスのロンザなど、臨床グレードのiPS細胞を供給する有力企業がある。それ以外の間葉系幹細胞など、再生医療用の細胞を作製、販売する企業も多く、日本でも細胞を受注し、サービスを展開している。こうした事業者が育たないと、治療研究のペースはなかなか上がらない。

細胞調製施設を備えたCiRAの新研究棟(手前)                   
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