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【特集:AI 社会と公共空間】
政治におけるAI

2019/02/05

民主主義と「AIの支配」

しかし、そもそも討議を促す前提自体に疑問が投げかけられているため、問題はさらに複雑になる。「決められない政治」の打破に、我々は「拍手喝采(acclamation)」を送ってきたのではないか。

もしもよりよき政策形成過程が、成果(performance)の最大化のみを意味するなら、政治形態としての民主主義は、エリート主義や権威主義などに劣後する。そして今では、民主主義以外の選択肢として、「AI(またはAIに支援された技術官僚)による支配」が新たに浮上しつつある。公共選択論や計量政治学などでも指摘されているとおり、民主主義は他の選択肢よりも認識的に(epistemically)優れているわけではない。米国やEUの停滞感に比べて、中国やシンガポールによる経済的進展が(数多の社会的課題を知りつつも)羨望の眼差しを伴って語られがちな現状は、それを裏書きするかのようである。

もちろん、熟議や民主的プロセスから正当性や正統性(legitimacy)を調達するという規範的価値を重視する立場を採用すれば、民主主義を擁護できる。しかし、統治において、個人的・集団的な自己決定、ひいては自由をどの程度重視すべきかは、必ずしも自明ではない。自己決定・自由と成果・幸福のどちらをどのような理由で重視すべきか、「自由か、さもなくば幸福か?」という問題設定は、開かれた問いとなっている。

そして、制度を支える原理の1つである自由が一種の擬制(フィクション)だと改めて意識させられたのが、フェイクニュースである。

世論形成におけるAI

フェイクニュースは、2016年のイギリスの欧州連合(EU)離脱を巡る国民投票やトランプ大統領を生んだ米国大統領選挙などを契機として社会問題となった。当時は捏造された文章や写真が記事となり、SNS等で共有され広がることが中心であった。しかし、近い将来は動画が主戦場になると見られている。「ディープフェイク(deep fake)」と呼ばれる技術群が急速に進展しているからだ。ディープフェイクは、AIも利用した画像処理により、人間の口の動きや音声を速やかに合成し、費用や時間をそれほどかけなくても完成度の高い偽動画を作り出せる。政治家の演説などを偽造できるため、フェイクニュースとして悪用されるのではないかとの懸念が生じている。

もちろん、捏造記事やプロパガンダなどは、古くからある問題だ。しかし、量的増加が質的変化に転じる可能性がある。民主主義の基礎となる「思想の自由市場」論は、自由競争によって虚偽の情報や低質な言論は淘汰されていくという発想に基づいていた。しかし、AIによってフェイクニュースが量産され流通すれば、真偽の検証が今以上に追いつかなくなり、人間の認知限界を越える結果、「思想の自由市場」が機能不全に陥ってしまうおそれがある。

こうした事態への対策として、2017年にはフェイクニュース規制法として国際的に注目を集めたドイツのSNS対策法が成立し(詳細は、鈴木秀美「ウェブ時代のニュースと法規制──ドイツの事例から」『三田評論』2018年6月号)、企業による自主規制も進んでいる。技術開発も数を増しており、個別の主張に関する検証(fact checking)、情報源の信頼性測定、音声・動画の加工有無の検知など様々な手法が試されている。ここでもAIの活用が期待されており、フェイクニュースを作る側と見抜く側でAI同士の競争が生じつつある。AIは、民主主義の基盤を危うくする方向ではなく、民主主義的価値を維持する方向にも利用できる。

不確かな言葉を携えて

ここまで見てきたとおり、AIによるよりよき政策形成の可能性を探求することは、これまでの政策形成過程が合理性や答責性を確保していたのかを振り返る機会にもなる。それだけでなく、合理性・効率性だけでは汲み尽くせない価値を析出できる。そして両者は必ずしも背反するわけではない。憲法学者の山本龍彦は、経済合理性や効率性の論理だけにとらわれず、憲法原理のよりよい実現に資する形で、AIをうまく実装することを目指すべきだと「両眼主義」を説いている。

冒頭で、現在問われているのは人間側の姿勢だと述べた。(本稿のように)たとえ不確かで拙くあっても、政治に求めてきたことや、これから政治に求めたいことを言葉にしたり、会話を通じてイメージを共有したりする営みは、「政治におけるAI」の仕様(product specification)を考えるだけでなく、「この国のかたち」をつくる実践でもある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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