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【特集:AI 社会と公共空間】
「公共性」の2つの含意

2019/02/05

  • 大屋 雄裕(おおや たけひろ)

    慶應義塾大学法学部教授 専門分野/法哲学

自由と受忍の二面性

たとえば、街の広場は公共的な空間であり、万人に開かれていなければならないという主張について考えよう。欧米の都市ではしばしばこのような空間が、多くは教会や市庁舎に面して用意されており、ときには日曜マーケットとして、あるいは大道芸の舞台として、場合によっては政治的な訴えを展開する場所としてさまざまな人に利用されていることを思いだした人もいるだろう。広場とはそのように自由に利用することのできる場所であり、そうであることからすべての人がさまざまな利便性を享受することができているのだとして、さてではその「自由」に、杭を打って縄をめぐらし、自分のものと主張して占有する自由は含まれているだろうか。

否、と誰もが答えるだろう。万人に開かれているとは、すべての人に対してそこにアクセスする可能性が(潜在的にであれ)保障されていなければならないということであり、誰か1人がその場を支配することによって他者の自由を制限するようなことは許されない。ここで保障されている自由は、他者の同様の自由を侵害しない限りにおいての自由だと、そういうことになるのではないだろうか。

公共性を帯びた空間とはこのように、一方ではいつでもそこを利用することができるという保障がこの私に対して与えられていること、しかし他方ではすべての他者もまた同様の利用可能性を保障されており、他者たちの利用を(したがって他者が現に利用している空間からは私が排除され同時に利用することはできないということを)この私が受忍しなければならないということを意味している。公共性の背後にある平等性の理念、誰もが1人であり1人を超えるものではなく、他者に対して優越的な地位に立つことはできないという原理が、自由と受忍というこのような二面性をもたらしているということになるだろう。

他者の視線からの自由?

そして問題は、いま述べたとおり他者による利用をこの私が受忍しなければならないということのなかに、私自身が他者たちに見られること、その視線にさらされることが含まれるかどうかという点にある。たとえば日本では、公道やそれに類する公共的な空間において人は必然的に他の誰かに見られる可能性があり、一般的に「見られること」自体は受忍しなくてはならないと考えられている。このため、防犯カメラに映った人物との同一性を判定するために被疑者の映像を警察が公道上・パチンコ店内で撮影したことは適法と判断されたし(最高裁決定平成20年4月15日)、グーグル・ストリートビューが公道上からの風景を撮影した際にベランダに干してあった洗濯物が映り込んだことについてプライバシーの侵害が主張された事例(福岡高裁判決平成24年7月13日)でも、一定の受忍限度内に収まっていることを理由として、違法性は結論的に否定されている。

これに対しEU諸国の態度は一般的にこれと大きく異なると言われている。たとえばスイスのプライバシー当局はかつて、ドライブレコーダーが車内から周囲を撮影することは、映り込む可能性のある個人すべてから事前に合意を取得することが不可能である以上許されないとの見解を示している。自宅玄関に防犯カメラを設置する場合でも、敷地内を越えて前方の歩道上を撮影するように設定することは違法であるとの注意も、フランスなどではなされている。そこにあるのは、道路がまさに公共的な空間であり、すべての人に対して開かれていなければならない以上、何らかの事情で映りたくない人・見られたくない人をそこから疎外することも許されないという理念なのだ。

他人に見られたくない正当な理由などというものが存在するだろうか、と疑う人もいるかもしれない。たとえばいままさに犯罪を実行するために道を急いでいるのであれば人目を避けたくもなるだろうが、我々としてはむしろ彼の意に反して監視を加えることの方が正当だと言いたくなる。しかし大きな人気を集めているので気付かれれば常にファンに取り囲まれてしまうような俳優が、たまの休日を静かに過ごしたいと考えることは不適切だろうか。顔などの外見に大きな傷や異常を抱えた人が周囲から奇異の目で見られてしまう(あるいはそうなるのではないかと考えて気に病む)ことも、現実問題としては存在するだろう。俳優については「有名税」とか自分自身で選んだキャリアの避けられない一部だとなおも主張する人であっても、後者のように自己責任を問うことができない理由から「見られたくない」と思う人の存在までも否定することはできないのではないだろうか。

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