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【特集:AI 社会と公共空間】
「公共性」の2つの含意

2019/02/05

自由と視線の相克

つまりここでは、先に指摘した公共性の2つの含意の対立が生じていると考えることができるだろう。公共的な空間を私が自由に歩きたいということと、私と同様にその自由を享受することのできる他者がその空間に存在し、その他者に見られてしまうこととが矛盾するとき、我々はそのどちらをどのような理由で優先すればいいのだろうか。

たとえば広場を歩く人が他人に見られるのかどうか、公衆電話での会話が周囲に聞かれるかどうかといった問題を考えよう。もちろん、公衆電話であればボックスに入れて空間を分断することで、物理的に音を遮断するという欧米的な対応も可能だろう。しかし、見られたくない人の移動の自由を守るために互いに視線の通らない無数の通路へと広場を分断することは端的に不可能であるか、もし可能だとしてももはや広場とは言えないものをそこに生み出すことになってしまうだろう。

そもそもそこで問題になっている人の眼・人の耳は一方で塞ぐことのできないもの、よほど強い強制をかけない限りは自動的に見てしまう・聞いてしまうものであり、それに対して物理的に完全な対応を試みても成功する可能性は低いと言わざるを得ない。他方で、それは物理的に聞こえているはずだとしても実際に聴いている(注意を向けて認識している)かどうかはわからない、聴いたとしても覚えているかはわからないといった不完全な存在だった。だからこそ、オープンスペースに置かれた電話から聞こえるはずの通話内容を「聴かぬふり」で済ますようにマナーで対応するという日本的な解決も成立したと、比較文化論などではかつて強調されてきたのではないだろうか。

出入りしていることがわかるとやや差し障りのある場所では互いに「見て見ぬふり」をするような行動様式が、洋の東西を問わず発達しているだろうことを考えれば、欧米であってもどこかでこのような人間の性質を信じてきたと考えることもできるだろう。人間の不完全性や社会的慣習を信頼することによって、公共空間は誰にも開かれた見られない・聴かれない場所として位置付けられ、公共性に関する対立が回避されてきたのである。

機械の目の下での自由

だが近年、情報技術の発展により新たに生まれてきた「機械の目」はそれと異なり、設定したとおりにさまざまなものを記録し、消さない限りは記憶しているという完全性を備えている。電子技術を用いた監視が一般化し、そこで収集された情報がAIによって自動的かつ高速に分析されるという状況が生まれたことによって、公共空間はどのような人に対してどの程度開かれているべきかという問題が真剣に考慮されるべきものになったと言うことができるのではないだろうか。

そしてこの点は、現実に我々が行き交う路上へと展開される電子的な監視において問題である以上に、情報を行き交わせる経路としてもはや我々の日常生活の重要な一部となったインターネットにおいて、より深刻に問われることになるだろう。我々は一方で、たとえばネット書店で私がどのような本を買ったか、SNSで誰と会話したか、どのようなサイトのどのページを見たかといった情報は「私のもの」であり、誰か他の人に勝手に知られたり利用されたくはないという感覚を──それを情報プライバシーと呼ぶか自己情報コントロール権と呼ぶかといった問題はさて置いて──当然に持つだろう。

しかしこれらの行為には第一に必ず相手方が存在し、書店や会話相手、サイトの開設者は必然的にその情報を受け取っているし、一定の場合にはそれに基づいて適切に反応することを期待されている(注文を認識しないので本を送ってこないネット書店には存在意義がないだろう)。SNSの場合はその会話が同じサービスの利用者からも見ることのできる状態に置かれているかもしれないし、ネット書店でもたとえば「おすすめ」リストの作成に影響するという間接的な形ながら(「この本を買った方は他のこの本も買っています」)、私の行動がどこかの誰かの行動に影響を与えているかもしれない。このような意味でインターネットはさまざまな人のさまざまな情報が行き交う公共的な空間なのであり、現実の空間と同様に、その場における自由と受忍の関係が問題になることになるはずだ。

たとえばいま例に挙げた「おすすめ」機能が我々にとって便利なものであり続けることができているのは、他の多くの利用者が真剣に商品を選び、自分が本当に必要とするものを買っているからだろう。アマゾン・コムで一時期実際に問題になったように、その本を購入したかどうかに拘わらず自由にコメントや評価を書き込めるようにすれば、本の内容ではなく著者の人格や行動に対する批判が殺到することになったり、逆に宣伝を請け負った業者らしき存在による無内容かつ画一的な絶賛コメントが並んだりする。このような「信頼できない評価」がサービスの利便性や評価の価値を大きく傷付けることは、一般参加型のグルメサイトなどを想起すればたやすく理解されるだろう。最近話題になることの多いフェイクニュースも、このようなインターネットの背信的利用者によって作り出された問題だと考えることができる。ここで問題となっているような背信的行動を排除し、他者によるサービスの適切な享受を制約しないように我々自身が振る舞わないのならば、我々自身が享受している公共空間の自由それ自体が滅びてしまうことになるのではないだろうか。

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