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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
『蘭学事始』と福澤諭吉──その出会いがもたらしたもの

2018/05/01

築地鉄砲洲の不思議な縁

さて、「事始」が先生にとって「多年人を悩殺する」書物となった背景として、考えられることはさらにある。

その第一は、前野良沢(蘭化)が中津藩の医師であり、彼らが「ターヘル・アナトミア」を開いて「唯あきれにあきれて居た」のが、奇しくも築地鉄砲洲の中津藩中屋敷、つまり先生が蘭書を教え始めた場所、また「事始」と出会った時に塾と住居を構えていた場所でもあったことだ。

この奇縁を先生がいつ知ったのかは分からないが、明治22年4月、慶應義塾旧友会での演説ではこの偶然に触れて、「先人と地を共にし事を同(おなじ)うしたるこそ不思議なれ」(全集第12巻130頁)と言っているから、自らも不思議な縁を感じていたことは間違いない。

併せて、明治27(1894)年になって、先生がこの場所に「蘭化堂」なる記念館を設立する構想をもったことにも触れておきたい(「蘭化堂設立の目論見書」、全集20巻387頁)。そこには「我(わが)開国以前既に開国の素ある所以(ゆえん)の事実を明(あきらか)にして、以てますます懐旧の情を厚くして、以てますます将来の進歩を謀らんとする」ため、旧藩邸の地に公園を設けて堂を建て、「ターヘル・アナトミア」翻訳の故事を描いた絵を掲げ、さらに維新以前の蘭学資料を多く蒐集または借用の上で展示して、その保存を図るといった具体的なプランが記されている。

実はその4年前、日本医学会がその総会で、良沢顕彰のため贈位の恩典を請願することを決議するということがあった。ちょうど先生が「事始」の再版序文を記した日の話である。先生は直ちに「洋学の先人へ贈位」と題する一文を発表して、位階を贈って顕彰することの弊を説き、「この一事に飽くまでも反対する」と明言している。しかし請願は医学会総代13名によって行われ、前野には明治26年に正四位が贈られた。この経緯を踏まえて考えると、先生の蘭化堂設立計画は、自らの主張を背景としてその顕彰の方法を探ったものだろう。

残念ながらこの計画は机上のもので終わった。ただ、今日鉄砲洲の故地に近い聖路加病院前のロータリーには、ともに谷口吉郎の設計した「ターヘル・アナトミア」翻訳の故事を記念する「洋学の泉はここに」記念碑と「慶應義塾発祥の地記念碑」とが並び建っていて、足を運べば、それぞれの事実とともに、2つの歴史的存在を結ぶ不思議な縁を知ることができるようになっている。

先人たちから得た力

第二に指摘したいのは、「事始」と巡り逢ってからその出版に漕ぎ着けたあたりの時期が、先生自身にも、また慶應義塾にも、甚だ重要な時節に当たっていたことである。

慶應3年1月下旬から6月下旬まで、先生は幕府の軍艦受取委員の随員として、2度目となる訪米の旅に出たが、出張中「ドウしたってこの幕府というものはつぶさなくてはならぬ」などと激しい幕府批判を口にしたばかりか、上官の命令にも従わず、帰国後、彼らから金銭上の問題を絡めた告発に遭って、10月末まで謹慎に処せられた。

この謹慎期間を、先生は著述活動に宛てていたという(「自伝」)。けれども一方で、塾生とともに洋学を講究することは甚だ重要な仕事であったはずだ。。すでに塾では小幡篤次郎(おばたとくじろう)・甚三郎(じんざぶろう)兄弟、松山棟庵(とうあん)、小泉信吉(のぶきち)など、運営面でも学業面でも、塾を率いる優秀な後進が育ちつつあった。またアメリカから帰国した先生を皆で品川まで迎えに出るような和気藹々とした空気も培われていた。先生はその塾のため、アメリカで大量の教科書を購入したり塾の規律を整えたりと、教育の環境整備に本腰を入れていた。

大政奉還が行われたのはこのような時のことで、前述のように以後時代は急速に混乱へと向かった。国の将来に見通しが利かなくなる中、先生が選んだのは、塾に集う人々と結束し、ひたすら洋学の講究に努めるという道だった。

折しも築地が外国人居留地として接収される日が近づいたので、先生は慶應3年の末に芝新銭座の土地を355両で購入した。そして戦火が迫り立ち退く者もある中、止める友人がいても塾生が減少してもかず、さらに400両の大金を投じて、そこに自宅と塾舎を普請したのであった。『慶應義塾百年史』はこれを「当時35歳の福澤の思い切った生涯の賭(かけ)」と形容している。

翌4年春、塾の人々は規則を整え日課を定めて、竣工した芝新銭座の塾で「慶應義塾之記」と題するいわば独立宣言文を発表し、その発足を世に明らかにした。同年4月18日の新聞『内外新報』は、開塾を同月3日のこととしている。すでに江戸城は無血開城されていた。

この塾は、洋学を講究せんと決意した先生たち「社中」の学塾であり、世の志を同じくする人々のために広く開かれた学塾であった。興味深いのは、先生が認めた「慶應義塾之記」が、そのような塾の趣旨を説く一方、紙幅の半ばを我が国の蘭学・洋学の来歴を説くことに割いて、今の自分たちがあるのは「古人の賜」であると強調した上で、困難であっても洋学に従事する覚悟を強く説き、そしてこの文の末尾を次のように締めくくっていることである。

…後来の吾曹(われら)を視ること猶(なお)吾曹の先哲を慕ふが如(ごと)きを得(え)ば、豈亦(あにまた)一大快事ならずや。嗚呼吾党(ああわがとう)の士、協同勉励して其(その)功を奏せよ。(全集第19巻368頁)

自分たちが先哲を慕うのと同様に後の時代の人々が自分たちを見てくれることを想像すれば、何と愉快なことではないか、皆で励んで、我々自身の功績をあげてゆこう──この言葉に見えるのは、過去と未来の両方から今の自らを捉える、一種の歴史意識である。世の中が騒然とする中、専ら洋学の講究に心を委ねていった先生は、ともに学ぶ人々を同志とする一方、先人たちの存在、彼らが切り開いた歴史を自らの力として学問に向かっていたのだろう。江戸時代の末、突然先生たちの前に姿を現し、先人の肉声を届けた『蘭学事始』は、困難な時節を自ら進んでゆくために、大きな役割を果たしたものと考えたい。また私は、そのことが、先生の「事始」に対する思いをさらに深いものにしたと思うのである。

おわりに

福澤先生の『蘭学事始』との出会い、生涯に及んだその影響について、分かること、考えられることを記してきた。「慶應義塾」が発足したのは150年前のことである。しかし「事始」に涙する先生を想像すれば、我々はその時代を身近に考えることが可能となるし、さらに「慶應義塾之記」を繙けば、自分たちが、すでに先生たちの視野にあった「後来」であることにも思い至る。私どももまた、自らの縁を求め縁を知り、それらを大切にしてゆきたい。

「洋学の泉はここに」記念碑

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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