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【特集:動物園を考える】
似て非なる日本と欧米の動物園──野生生物保全と動物福祉の視点から

2017/06/01

野生動物の飼育が許される条件は?

動物の福祉一般についての私の知見は限られているが、欧米社会における動物福祉を重視する空気の高まりも1960年代から70年代の環境保護意識の高まりと呼応しているように見える。アメリカではヤーキース国立霊長類研究センターでの類人猿を使った研究活動に対する批判が始まったのがこの頃で、80年代にはアトランタ動物園のゴリラWillie B.や、ワシントン州タコマのショッピングセンターで飼育されていたゴリラIvanの飼育状態に対して批判が巻き起こる。どちらも立派なオスのシルバーバックだったが、屋内の一室だけの施設に1頭だけで飼育されていた。いわば独房である。このためアトランタ動物園はゴリラが草木の生えた放飼場で群れで生活ができるよう飼育展示施設を全面的に改修した。Ivanもシアトルのウッドランドパーク動物園を経て最終的にはアトランタ動物園に引き取られた。この頃からゴリラの飼育管理方法の大幅な変化とそれに伴う施設の見直しが各地の動物園に広がっていった。

大型類人猿のほかに強く影響を受けたのがゾウや鯨類だ。どちらも高い知能を持ち、社会性の強い動物である。ゾウに関しては馴致に手鉤を使う方法が非難の対象となっただけでなく、オトナのオス以外は本来家族群で暮らすゾウを単独で飼育するのは福祉に反するという批判が強まった。また、寒い冬の間中屋内飼育をしなければいけないような地域では施設の狭さが問題視されるようになった。さらに、動物園としては飼育下で繁殖した個体で展示動物を維持するという大前提を自ら掲げたのであるから、繁殖群の維持に対応できる体制に移行すること、最低でも複数個体の飼育を原則とすることなどが必要となった。オスゾウは繁殖期には気性が荒くなり扱いが困難なうえ、オスだけを隔離できる施設が必要なので、オスゾウは飼わないという動物園が多かったが、そうはいかなくなった。この結果、今ではまさにマンモス施設と言える規模の展示が欧米でいくつも作られている。

イルカについては、太地町のイルカの追い込み漁を非難する映画「ザ・コーヴ」が日本でもよく知られるところであるが、その製作の背後には追い込み漁だけでなく鯨類の飼育展示そのものを終わらせようとする人々の思想が働いている。2013年には米国シーワールドのシャチを題材にした映画“Blackfish”がアメリカで公開され、シーワールドの経営に相当の打撃を与えただけでなく、シャチの飼育展示に否定的な意見が行政や政治家の間にも広まった。この3月にはカナダ・バンクーバー市の公園当局の理事7名が、水族館による鯨類の輸入と飼育展示を禁じるよう細則を変更する動議を全員一致で支持した。サーカスは長いこと批判にさらされてきたが、リングリングブラザーズ・バーナムアンドベイリーはついに廃業を決めた。

共同繁殖にしても、体制が整ったから安心というわけではない。たとえば繁殖群を長期に維持していく上で避けられない問題の1つに余剰個体の問題がある。余剰個体を淘汰するかどうかがアメリカの動物園水族館協会でも議論された時期があるが、結論としては動物を愛する心を養う動物園の機能に照らして終生飼育を原則とするしかないだろうということになった。どうしても転出させなければいけない場合転出先に注意しなければいけない。というのは、流れ流れて不誠実な施設に引き取られでもしようものなら、いくら動物園協会加盟園館での飼育管理水準を上げても、「こんな酷いところに動物を送っている」という非難の矢が飛んでくるからだ。

日本の現状

このように、欧米(以下豪州も含む)の動物園や水族館はずっと一般社会からの批判的な選択圧にさらされてきたので、運営体制も施設もそれに呼応した進化を続けている。展示も飼育管理方法の変化への対応だけでなく、市民のイメージを考慮してなるべく自然環境に近く広々と見えるような施設設計がなされ、印象の悪い檻や格子を極力避けるようになった。保全への努力はただ単に動物園での繁殖や研究だけでなく、原産地国での保全活動(域内保全)にいかに寄与できるかということを追求してきた。動物園を訪れることで環境についての知識や意識が向上するか、動物園は社会にとって意味があるか、そうしたデータを集める調査も繰り返し行われている。動物園という施設の社会的存在理由、ソーシャルライセンスそのものを疑問視する声すら聞こえ始めた欧米においては、これはサバイバルをかけた業界全体の経営努力と言っても過言ではない。

一方、日本では動物園や水族館はほぼ無批判に受け入れられているので、欧米の動物園とくらべて進化はギリギリ最低限のところで止まっている。

進化が止まっているもう1つの理由は運営体制の根本的な違いである。そもそも動物園の役割とは何か、そんなことを真面目に考えたことのある人は日本の中にほとんどいないだろう。動物園関係者の間では、現在世界標準として動物園の役割とされている4つのポイントが認識されている。それは、レクリエーション、教育、研究、野生生物保全である。これを私は昔からお題目と言っている。なぜかといえば、この役割はここまで記したような欧米の社会環境のもとで生まれた認識であって、日本の動物園はこの役割を果たす組織構造になっていないからだ。そもそも日本の公立動物園は公園の枠組で運営されているので、縦割り行政では多義的な役割を担うことが困難だ。私もアメリカに住んでみてはじめてはっきりわかったのだが、欧米の動物園と日本の動物園は野生動物を展示しているということ以外は似て非なるものと言っていい。特にアメリカでは公共性の高い事業の官民協働のシステムが国を支えているので事業形態そのものが日本とは随分異なる。

まず人の問題だが、欧米の動物園のトップは、基本的には生物学者か獣医である(近年、動物の管理と動物以外の経営運営との2頭政治をとる施設が出てきた)。しかも動物園や関連施設で長い経験を積み、園長職も何十年も務める人が少なくない。動物管理も大きい施設では哺乳類、鳥類、両生爬虫類など専門の分類群別に通常学位を持つキューレーターが行っている。教育部門は教育部門で専門のキューレーターがいるのが普通で、ただ単に園内での来園者対象のプログラムを提供するだけではなく、近隣の学校をまわったり、あるいは教師を対象とするプログラムを組んだり多角的な取り組みをしている。園内でのプログラムも多くは有料で、それだけで採算の取れる事業に成長させているところも珍しくない。保全についてはすでに書いたとおりであるし、キューレーターらの多くは原産地国での保全活動や様々な会議のために国内国外を飛び回っている。

一方日本はどうか。動物園の園長ともなれば動物の専門家だろうと思っている人が多いかもしれないが、日本にはいわゆる動物学者と言える人がほとんどいない。大半の動物園は公立なので、行政の慣行に従って人事が行われる。この結果、数年ごとに配置が変わる。なるべく動物園の経験のある人が園長職につくよう努力はするだろうが、適材がいない時は、農学部や獣医学部出身で林業試験場や農業試験場などにいた人が園長職につくことも珍しいことではない。そうした人がすべからく不適格というわけではなく、尊敬する人も何人もいるが、事業の長期的な質の向上や絶えず変化する社会環境を考えた場合、こうしたやり方では限界がしれているということはお察しいただけるであろう。これは園長だけではなく課長、係長でも同じ話だ。

飼育現場に至っては、百万都市の動物園でも現業扱いというところがある。コンピューターは係長席に1つだけ、飼育日誌はいまだに手書き。これでは飼育データの検索もろくにできず、科学的管理もなにもあったものではない。長期にわたって繁殖群を維持管理するには、個体ごとのデータ管理が不可欠で、医療や飼育設備と管理方法に至るまで世界中のデータを共有できるシステムのサービスも存在するが、そうしたサービスの利用のために予算がきちんとつく自治体は例外中の例外である。

教育についてはそういう人をつけている園館が少ないし、いても広報やイベント担当の機能まで背負わされていることが多い。調査研究など組織的に行っているところは例外的で、研究会や勉強会への出席も休みを使って手弁当が普通というのが日本の現状だ。動物に至っては、欧米では「共有財産」と書いたが、帳簿上は備品扱いという自治体が少なくない。だからすぐ「購入する」という話になるわけだ。

近年は指定管理者制度の適用により、自治体と指定管理者の間の責任分担が不明瞭になっている。指定管理者制度は丸委託制度で決定的な経営権はすべて本庁が握っているが、その本庁の動物園担当者も数は限られているし数年ごとにくるくる変わるので、前例主義が一層強まる結果となっているのかもしれない。予算がないと言われ、収益の上げられる事業を提案すれば公立の施設でコスト以上の料金は取れないとか言われ、結局事業の質の評価は4つの役割をいかに果たしているかではなく、利用者数でのみ評価される。しかも1日の最適利用者数など無視、すなわち利用者の快適性無視の勝手な話である。

経済の減速と税収の減少で動物園のような事業も日本では節約、節約で進められてきた。リーマンショック以前の例で恐縮だが、ブロンクス動物園につくられた「コンゴ・ゴリラの森」の建設コストは4300万ドル(1999)、チューリッヒ動物園の「マシュアラ熱帯雨林」の建設コストは5200スイスフラン(2003)でそれぞれざっと約43億円と52億円である。そしてそれぞれがコンゴ盆地とマダガスカルでの保全活動への資金集めの窓口となっている。ここにもまた欧米と日本の差が見える。

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