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【福澤諭吉をめぐる人々】
山口半七

2023/04/19

『山口翁:大分県の耆宿』より
  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    中津市歴史博物館学芸員・塾員

山口半七(やまぐちはんしち)の自叙伝に序言を寄せた矢野龍渓(文雄)は、「中津出身の人々は福澤先生及び中上川彦次郎氏の縁故より、実業界に足場多し、故に之に投ずるときは身を立るに難からず」として、山口がもし実業界に足を踏み入れていたらその財力と名声は現在の数十倍であったはずと評価した。

慶應義塾出版局を皮切りに実業を経験したのち、政界の苦難を見かねて政治家となり、政治・経済ともに福澤の故郷・中津を支え、終生福澤と親しく交流したが、父・広江とともに先行研究では言及されることがあまりない人物である。本記事では、大分県政財界の重鎮であった半七について概観する。

幼少期

山口半七は嘉永6(1853)年に中津鷹匠町に生まれた。父は福澤とも親しい山口広江、母は東条利八の長女・伝(でん)であった。幼名は克己といい、維新後に父が改名するとともに半七と名を改めた。幼少期は病弱であり、家に篭ることが多かったものの、6歳より福澤の義理の叔父に当たる橋本塩巖より漢学を学んだ。塩巖の家塾・誠求堂では泊まり込んで勉強し、剣術・柔術は不得意であったが、漢籍については才能を見せたという。また、慶應義塾長もつとめた濱野定四郎の父・覚蔵より砲術の指南も受けた。覚蔵は算術に明るく、また冶金にも通じていた砲術の大家で、高島秋帆の門下であった。半七はペリー来航の年に生まれているが、こうした社会情勢から中津では砲術留学が認められ、盛んに行われていた。半七は世情に明るい父の元で、様々な学問と触れ合う機会を得たのである。

半七は14歳で元服したが、1年繰り上げて行われたのは、父・広江の江戸勤務に付き添うためであった。当時江戸行きの藩命には、江戸に1年滞在して任を行う在番(ざいばん)と用務が終わり次第すぐに帰国する立帰(たちかえり)の2種があり、広江は立帰を命じられていた。このような短期間の出府に子息を同伴することは異例だが、広江は半七を福澤の塾に入れる腹づもりであったようである。広江と半七は海路で大坂へ向かい、大坂蔵屋敷で藩重役と面会した。その後、長州出兵等の急な情勢の変化により、広江の上京は取りやめとなり、半七も慶應義塾に入学することは叶わなかった。その後は砲兵手として出仕する傍ら、誠求堂での勉学を続けることとなった。

東京遊学

半七が17歳のとき、再び慶應義塾入学の機会が訪れた。福澤が甥・中上川彦次郎とともに中津へ帰郷したのである。その頃半七は日出(ひじ)への漢学修行を検討していたが、「福澤先生の勧誘と中上川の漢学無用論」に心を動かされ、予定を変更し急遽上京することとなった。半七は上京時の福澤一行の様子を自叙伝に書き残しており、新しい時代に向かう青年らの情景が浮かぶ。例えば、半七はじめ中津の面々は茶筅髷(ちゃせんまげ)に羽織袴、大小刀を差した武士の風貌であったが、福澤と中上川はすでに散髪(ざんぱつ)着流しの身なりで、中上川は刀を一振り所持していたが、福澤は丸腕であったという。

また中上川は半七のような武士の装いは東京ではすでに笑い物になるので、「文明開化の洗礼」といって半七に散髪を勧めた。中上川は「君たちの理髪師になってやろう」と半七達に迫ったが、その腕前は今ひとつであったようで、嫌がる半七と面白がって髪を切ろうとする中上川が「君が下手なり」「君が卑怯なり」と騒ぎ立てて、ついには福澤の母・順も加わった大騒動になり、半七は斑模様の猫のような髪型にされてしまったという。

他、当時国学に傾倒していた朝吹英二が福澤と数十回も討論するも論破され、降参して東京に同行したことも記している。一行には非常に位の高い上士の子弟も含まれていたが、こうしたエピソードからは身分の垣根を超えて、東京に学びに行く青年の賑やかな様子が伝わってくる。

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