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【福澤諭吉をめぐる人々】
山口広江

2023/03/16

  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    中津市歴史博物館学芸員・塾員

福澤諭吉は、『福翁自伝』に「門閥制度は親の敵」と記したように、故郷・中津の旧弊を忌み嫌った。中津で体験した身分格差や迷信による不平等・不合理な出来事が、福澤の思想の根源となったともいえる。一方で、実際に中津藩政に関わった上士や文官の中には福澤に共鳴し、中津の近代化を推進した「福澤派」の人物もいた。彼らによって中津の教育・金融・インフラは整備され、福澤もまた中津の発展に対して尽力を惜しまなかった。今回紹介する山口広江(やまぐちひろえ)は、中津の「福澤派」の一人である。

苦労した少年時代

山口広江は旧名を広右衛門という。文政7(1824)年に中津鷹匠町に生まれ、福澤よりおよそ10歳年長である。山口家の近くには福澤の姉・礼(れい)が嫁いだ小田部(おたべ)家や福澤の漢学の師である白石照山が居を構えていた。福澤宅から山口宅は徒歩10分程度で、両家が深く交流を持ったことは想像に難くない。また広江の妻・伝(でん)は福澤の父・百助の兄弟である東条利八の娘であるため、福澤の従姉にあたる。山口家は供小姓格の家柄で、家禄は15石3人扶持と福澤家と同程度の家格であった。祖先は弓術師範の職のみでは家計を維持できずに、茶園を設けて製茶によって収入を得ていたようである。

広江の父は長左衛門親升(ながざえもんちかのり)といい、武芸や書に秀でた清廉な人物であったという。筆の腕をかわれて御用書役に登用されるも、潔癖さが災いして役人の世界になじむことができずに、後に藩校・進脩館の観察役に転任した。しかし進脩館監督の職務中、進脩館で学ぶ上士階級の子弟が起こした盗難事件に対して忖度ない処罰を求めた結果、藩上層部と諍いとなって、長左衛門が処罰されることとなった。虚構の申立てをして上士を陥れようとしたという罪状で、長左衛門は隠居と国外追放を命じられてしまい、宇佐へ転居する憂き目となった。

その時は弱冠13歳であった広江が家督を相続したが、処罰には家禄半減も含まれていて、山口家は非常な貧困に陥った。広江は公務の傍らで夜に内職をして家計を助け、幼いながらに家長として困難な舵を取ることとなったのである。

下士として

広江は父より武芸と書の才能を引き継いだが、漢学が苦手であった父とは異なり学問を得意としたという。筆を能くしたことから父と同じ御用書役に抜擢された後、広江は17歳で中津城の城門守衛を行う固番役(かためばんやく)(御門番)を任じられた。固番役はあくまで守衛が任務で、その下に「開閉番」という門の開閉を行う職位があり、その職は足軽が担うものであったが、城門の開閉も固番役の仕事とするよう変更があり、下士の不満は高まった。さらに固番役の名称がより下位に感じさせる「開閉番」に変更されたことで下士の不満が爆発し、嘉永6(1853)年には白石照山が永久御暇の処罰を受けた上士下士間の騒擾「御固番(おかためばん)事件」が勃発した。

広江の子・半七の自叙伝『大分県の耆宿 山口翁』では、広江や福澤の兄・三之助も御固番事件に連座して処罰を受けたと記しているが、年代に齟齬がみられ、詳細は定かではない。しかし広江が固番役中に下士を扇動したとして2年の謹慎を命じられたことは確かなので、固番役や身分格差をめぐる緊迫した状況は十数年続いていたものと考えられ、福澤や広江に大きな影響を与えたことであろう。

広江は年齢がまだ幼いことを理由に自宅謹慎となったが、謹慎中に儒学者・手島物斎が自宅で教授をしてくれることとなった。手島は福澤の母・順の妹と結婚した儒学者・橋本塩巌の兄にあたる。広江を前より教育していたが、17歳でありまだまだ教育が必要であることを哀れんで、藩に申し出て自宅教授の許可を得たという。後に広江は、自分が文章を得意とするのはこの時に学んだおかげだと回想している。

山口邸(中津)
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