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【福澤諭吉をめぐる人々】
山口半七

2023/04/19

塾生・塾員として

無事東京に到着した半七は、新銭座にある慶應義塾に入学した。半七は明治2年から明治5年に至るまで在籍し、福澤や小幡篤次郎から学んだ。半七は半学半教の気風を感じ取ったようで、塾生と並んで福澤や小幡の名が記されていたことや卒業年度が規定されていなかったことが印象に残ったようである。

また、慶應義塾が三田に移転する頃に入塾しており、寄宿舎に入り修繕工事の監督をしながら勉強した。その後、中津市学校の初代校長として赴任した小幡篤次郎に同行し中津に戻るも、度々東京に出ては慶應義塾内に滞在し、勉学を続ける生活を送った。この頃、福澤の著作が多く販売されていたことから、朝吹らとともに慶應義塾出版局の設立に携わることとなった。利益が見込まれ、業績が安定すると半七は関西支店として下関での開業を担当し、初めて実業界に足を踏み入れたのである。下関支店は成功しなかったが、その後呉服業のほか幾つかの商売に参入し、中津・大阪・東京を行き来する生活となった。

こうした実業には福澤の支援があったようで、半七は機嫌が良い時の福澤に頼み、京都府知事を紹介してもらったと回想している。また、父・広江とともに日田・中津間の物資の運搬を円滑にすべく交通網の整備にも尽力したほか、福澤の又従兄弟にあたる増田宋太郎が起こし、自由民権運動の土壌となった田舎新聞の経営にも参加するなど、半七は早くから中津の発展に尽くしていた。

政治家として

明治10年頃には主に実業界で活動した半七であったが、明治14年の政変以降は政界に身を置くこととなった。中津では自由民権運動が盛んであり、半七の親類は自由党を支援していたようだが、半七自身は慶應義塾の流れを汲むものとして、あくまで実業の面から社会に貢献したいと考えていた。半七の父・広江は極めて優秀な財務官であったため、父の影響もあったのか、財政や経済に関心が強かった。

しかし明治14年の政変によって、慶應義塾出身の官僚が罷免されたことを知った半七は、実業の改善はもとより必要であるが、政治の改善はその根源となるべきものであると考えを改め、政治に関心を持つようになった。そして明治15年、豊州立憲改進党の結党に参与して、以後県会議員として活躍するようになり、明治21年よりは副議長として精力的に活動した。半七の自叙伝には県議会の様子や、大隈重信との面会、中央政界との折衝など地方議員としての活動が細かに記されている。

明治23年(1890)、国会開設の詔が発布されると選挙準備が活発になり、半七も巻き込まれることとなった。その年の5月に半七は大分・中津の選挙協議会に収集され、上京している。協議会のメンバーには朝吹英二や小幡篤次郎も含まれており、衆議院大分第6区より出馬する候補者に関する協議が行われた。半七ともう1名候補がおり、両者が親しいことから選挙調整が行われたようだ。

この衆議院選出馬については福澤の書簡が残っている。半七の父・広江宛の明治23年7月8日付の書簡では、選挙に関する日本中の熱狂について「小児の戯れか大人の発狂」と表現し、冷静な立場を貫いている。その後、半七が破れた候補者が亡くなった際の再選挙については、福澤は地元からの印象が良くないのではという理由で、半七が出馬を断念するよう父・広江や半七に対して書簡を送った。

半七は明治27(1894)年に第3回衆議院議員選挙に当選した。半七の選挙戦には中津市学校や慶應義塾で学んだ人物が協力しており、中津や大分を中心とする福澤・慶應義塾による派閥が生まれていたと考えられる。しかし、半七は第4回選挙で落選し、短い国会議員任期を終えることとなった。

中津の政治・経済の立役者として

衆議院議員の任期を終えたのち、半七は一度隠居するも、再び大分県政財界に戻ることとなるが、そのきっかけは製糸業であった。明治28年、中津有力者の働きかけによって創立された豊中製糸会社の社長に就任した。中津の紡績・製糸業については、福澤や小幡の先導によって会社が設立され、富岡製糸場に女工が研修に派遣されるなど積極的に展開されていたが、より近代的かつ大規模な工場を設立することとなり、その際代表に選出されたのが半七であった。

以後、半七は耶馬溪鉄道をはじめ、紡績・ガス・セメント・鉄道といった会社に参画することとなる。銀行についても熱心に取り組んだようで、大分農工銀行の設立に際しては、人脈を駆使し株主の手配に尽力したため、のちに頭取に就任することとなった。明治20年代後半以後の半七の実業活動については、自身が積極的に設立に動いたというよりも、調整役として求められて参画したことが多く、自叙伝でも事業内容よりも人員の斡旋や、政党派閥との調整に関する記述が目立っている。政治についても完全に引退したわけではなく、立憲国民党の分裂や立憲同志会の設立の際には、中津と東京間を行き来して、精力的に活動していた様子が窺える。

また大分銀行の整理に際しては、和田豊治や井上準之助らとともに、巨額の損失の補填並びに立て直しに奔走した。安田銀行をはじめ、幾つかの銀行に打診するも色良い返答はなく、和田・山口ともに困りいったところ、助け舟を出したのが廣岡家であった。

廣岡家は豪商・加島屋の家柄であり、加島屋は蔵元として江戸時代より中津藩の蔵屋敷の管理を行っていた。半七は大同生命保険会社や加島銀行の行員と関係があり、加島銀行が九州進出を検討していたことから、廣岡家への打診を提案した。井上邸において行われた廣岡恵三と半七・和田・井上との会合では回答持ち帰りとなり、大分銀行の経営状況の不良から加島銀行が最初断りを入れるも、半七は東京に長く滞在しながら折衝を続け、状況を好転させるに至った。こうした尽力が実り、大分銀行は大正13年1月29日に新たに開店するに至ったのである。

半七は昭和4年に引退すると、余生は別府を中心に生活した。半七の長男・龍吉は西南戦争の頃誕生したが、その子である山口一夫は外交官となり、のちに福澤の洋行に関して本を出版している。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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