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【福澤諭吉をめぐる人々】
矢野文雄

2021/07/27

『龍溪矢野文雄君傳』(春陽堂、1930)より
  • 大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    慶應義塾普通部教諭

鷗外森林太郎は明治44(1911)年に『龍溪(りゅうけい)随筆』の題言に言う。

龍溪先生は余(よ)が言(げん)を待ちて知らるべき人にあらず――明治の末、その名は世に広く知られていた。矢野文雄(やのふみお)、号は龍溪。新聞人、政治家、外交官、さらに文学者としても第一線で活躍した人物である。だから文豪は、自分が紹介するまでもないと言うのだろう。

しかしそれから110年、矢野の名やその仕事の彼是(あれこれ)を知る人が、今どれだけあるものか。試みに高校教科書『詳説日本史』(山川出版社)を眺めれば、その名は自由民権期に好評を得た政治小説『経国美談(けいこくびだん)』の著者として、わずかに文学作品の一覧に見えるのみだ。

矢野の仕事や人物が今日それほど顧みられない理由は、おそらくその多彩な活躍それ自体にも求められる。

政治学者丸山眞男は矢野を評して「彼こそブルックハルトがルネッサンス的人間類型として特徴づけた「普遍人」(l'uomo universale)と名づくべき人物のように思われる」と述べた。

けれど丸山はその後へ、「普遍人」龍溪を悪い言葉で表現すれば「何でも屋」龍溪ということにならざるをえない、と言い、そして「私自身は、滔々としたコマ切れ的な「専門家」を輩出した近代日本の中では、たとえ「何でも屋」であっても、龍溪ほどのレヴェルに達すれば偉とするに足りると思っているが……」と加えている(『矢野龍溪資料集第一巻』序文、1996)。

一藝を窮めた専門家とは違って、矢野の活躍は多くの方面に亙る。加えて彼の文章は該博な知識に裏打ちされてもいて、その生涯を1つの像に収斂させようとすればするほど、多岐亡羊(たきぼうよう)の感が沸く。今回はあたかも小紙片に富嶽を描くような積もりで、その生涯と仕事を素描し、矢野という山を遠くから眺める今の読者の便に供したい。

義塾の教師から新聞の世界へ

矢野文雄は嘉永3年12月1日(西暦1851年1月2日)に豊後佐伯藩士光儀(みつのり)の長子として生まれ、藩地佐伯で学問を積みながら成長した。維新後の明治3年1月、父光儀が下総葛飾県(現千葉県内)の大参事から知事に進んだのを機に一家は上京、文雄は漢学を学んだ後、4年3月4日(1871年4月23日)に慶應義塾へ入社した。

矢野が入った当時、塾はまだ芝新銭座(しんせんざ)にあった。「一二ヶ月間同所に通学せし中(う)ち間もなく」三田に移転したという(矢野「予が在塾当時の懐旧談」)。

塾生時代のことでよく知られているのは、親元から送られる月10円の金で2歳年下の同郷人、藤田茂吉(もきち)と共に生活を送ったという逸話である。

佐伯藩の俊秀で矢野の学弟でもあった藤田は、東京遊学を望んだものの、家は貧しく学資に乏しかった。そこで矢野は「極めて有望の青年なれば是非上京させたしと考へ」て藤田を呼び寄せると、自分の学資金で2人分の生活費まで一切を賄うことにした。生活に余裕はなく、両人は寄宿舎を出て安い部屋を間借りし、自炊しながら食い繋いで勉学を続けたのであった。

明治6(1873)年、わずか2年ほどで学業を卒おえた矢野は、そのまま義塾の教員となった。英語の素読や歴史などを教えた後、8年1月には、大阪にあった義塾の分校(大阪慶應義塾)へ派遣され、そこで校長となった。

同年7月に大阪慶應義塾は阿波徳島へ移転、矢野は徳島でも校長を務めた後、9年春に東京へ戻ってきた。

『慶應義塾入社帳』を見ると、大阪や徳島で入社した学生数名が本塾へ移り、矢野が保証人となっている。後年ヴェルヌやユゴーの翻訳で知られる森田文蔵(思軒(しけん))もその1人だった。

しかし矢野は帰京後に教師を辞めてしまう。『郵便報知新聞』を発行する報知社で論説記者になったのだ。藤田茂吉がそこで主筆となっていた縁によるという。報知は元の主筆栗本鋤雲(じょうん)が福澤と近く、福澤自身も寄稿するなど義塾と関係が深い新聞だった。

矢野は徳島時代に洋書を渉猟し、政治制度や法律、経済、歴史などを一心不乱に学んでいた。新聞の論説記者という立場は、その自らの学問を実地に試すには最適であったのだろう。さまざまな問題を縦横に論じていった。

ただ師の福澤諭吉はその生活を不安心に思ったようだ。犬養毅によると、ある時矢野を呼んで今後はどうするつもりかと訊くと、「遣りかけたことであるから石を喰つても遣り遂げる積り」と言うので、福澤は「石や砂が米になるものではないからそんなことをいつてゐてはいけない」と注意を与えたという(石河幹明『福澤諭吉傳』)。

大隈の下で官僚となる

そのことがあってか、福澤はやがて矢野に一大転機を与えることになる。ある日趣味の銃猟で仕留めた真鴨(まがも)を自慢しようと福澤の許を訪れた矢野は、思いもかけぬ話を聞かされた――実は君を呼ぶところであった、大隈重信から部下として然るべき人を推薦して欲しいと求めてきたので、君が適任だと話したばかりだ、1つ政府へ出て大隈の下でやってみてはどうか――。

明治11(1878)年3月、福澤から大隈に宛て、「エンサイクロペヂヤ」(百科全書)の編纂担当者として矢野を推した書簡が残っている。大隈は時の参議で大蔵卿であった。

矢野は父に相談した上で、この勧めを受けた。本人の回想によれば、当初彼は奏任(そうにん)筆頭の大書記官なら出てもいいと、甚だ大胆な条件を付けたそうだが、同年7月、結局は大蔵省三等少書記官として出仕している。

その後官制が改まり、矢野は大隈と共に太政官に転じると、大書記官兼統計院幹事に昇進した。統計院は会計検査院と共に大隈の建議で設立された機関である。彼は義塾出の犬養毅尾崎行雄、牛場卓蔵を大隈に推薦して引き込んだ。藤田の上京もそうだが、後進にこれと思う人があれば、放ってはおかれない性分であったように見える。

さて、このように大隈の下で官吏として順調に進んだ矢野だったが、その経歴は「明治14年の政変」(1881年10月)で突然終わった。参議筆頭の大隈が罷免され、同時に矢野たち義塾出身者多数を含む大隈派の官吏が、一斉に政府を追われたからである。

矢野は単に大隈の幕僚であったのみならず、大隈が上奏に用いて政変の端緒となった政体意見書の起草者でもあった。この意見書が矢野も参画して出来た交詢社(こうじゅんしゃ)の私擬(しぎ)憲法案や、福澤の著書『民情一新』の主張に酷似し、そしてそう見られたことが、「大隈が福澤及び三田派と結んで政府転覆の陰謀を巡らしている」といった流言を真実味のあるものにしたのである。

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