三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
犬養 毅

2020/02/27

犬養木堂記念館蔵
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

久しぶりの休日。いつもなら、緊張した面持ちの背広姿の男たちがひっきりなしに往来する首相官邸も、この日はひっそりと静まり返っていた。穏やかな1日を終えようとしていた午後5時すぎ、その表門を突っ切って玄関口にタクシーが止まってから、官邸の様相は一変した。「暴漢が乱入しました。避難してください」という護衛官の急報に、時の首相犬養毅(いぬかいつよし)は全く動揺することなく、「いや、わしは逃げない。会って話を聞こう」と応じた。

やがて食堂に侵入してきた血気にはやる青年将校たちを制するように、犬養は手を挙げ、「まあ待て。騒がんでも話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。あちらへ行って話を聞こう」と言うと、将校たちの先頭に立って廊下を案内し、奥の客間へと向かった。

命知らずの馬鹿野郎

犬養毅の首相在任期間は、わずか5カ月ほどにすぎない。それにもかかわらず、犬養が今日も日本を代表する政治家、首相として名を残しているのは、「話せばわかる」という言葉に象徴される犬養の一貫した民主主義を追求する政治姿勢にある。議会政治が未成熟な時代にあって、それは薩長の藩閥政治や「問答無用、撃て」に象徴される軍国主義に言論で挑む戦であった。

犬養は、安政2(1855)年、備中国庭瀬村(今の岡山市)に生まれた。幼いころから漢学を学び、「ボロ塾の漢学先生にはなれる自恃(じじ)心は持っていた」(『木堂談叢』)という域に達した。転機は、西洋の法学書の漢文訳『萬国公法』を手にしことであった。西洋の学問には漢学にないものがあると知り、東京で洋学を勉強しようと決心した犬養は、父を亡くしていたため、親戚から受け取った15円を手に、上京した。

犬養は、学費の安い共慣義塾という学校に入学したが、やがて金銭が尽きる。窮した犬養は、慶應義塾出身で郵便報知新聞の主筆をしていた藤田茂吉(ふじたもきち)の家に転がり込むが、藤田は犬養の漢学の素養に目を付け、新聞への寄稿を勧める。原稿料を受け取るようになり、金銭的に余裕のできた犬養は、当時、東京一と言われた慶應義塾に入学。他の学生とも一切交際をせずに、一心不乱に昼は本を読み、夜は新聞の原稿を書く生活を送った。寄宿舎は、十時消灯であったため、明かりをござで囲って漏れないようにしていたという。

明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると、藤田は犬養に戦地偵察人にならないかと声をかけた。従軍記者の走りである。危険に身を晒す見返りとして、卒業までの学費を会社が補助するという誘いに乗った犬養は、他の記者が遠方での取材で済ます中で、一人戦地に足を踏み入れ、記事を発信した。最前線から犬養が伝える「戦地直報」は、たちまち世間の評判となった。

犬養は、一時期東京に戻り、福澤諭吉のもとにも顔を出した。福澤が「お前は鉄砲玉が何処まで届くということを知って居るか、危ない処へ行くよりも塾に居て勉強した方が宜しいではないか」と言うのに、犬養は「私は戦地に行けば、罷り違えば死ななくてはならぬということは勿論承知して居ります」(『福澤先生を語る諸名士の直話』)と答え、再び戦地へと戻った。この時、犬養は戦争の雰囲気に刺激を受け、軍人になろうと考えた。相談を受けた政府軍の司令官谷干城(たにたてき)は、「戦争は長く続かない。君は学問を続けた方が良い」と諭し、犬養が軍人になることを認めなかったという。西郷隆盛が自刃し西南戦争が終わると、「ああ、わが輩は官軍凱旋の日に歌い、国家の旧功臣が死せるの日に悲しまざるべからず」の名文を残し、100回を超える「戦地直報」も幕を閉じた。

慶應義塾に戻った犬養を福澤は、「命知らずの馬鹿野郎」と怒鳴りつけた。犬養が一時消息不明になった時には、流れ弾に当たって死んだとの噂も流れていた。福澤は犬養の才能を認め、期待を寄せていたからこそ、犬養の安否を気遣っていたのであろう。それから犬養は、福澤の意見を記述する仕事を命じられるようになった。この頃、三田には演説館が建てられ、日本に討論や演説を広めようと、福澤自らが演台に立っていた。これに触発された学生や卒業生が討論会を開く集団を結成し、福澤は彼らを「民権村の若い衆」と呼んでいた。犬養も猶興社(ゆうこうしゃ)という集まりを立ち上げた。

また将来の国会開設を見据えて、擬国会なるものも行われた。犬養の回顧談によれば、始めは福澤自らが議長となったものの、議事進行そっちのけで議論に参加してしまったため、やがて議長は交代することになったという。

当時の慶應義塾は、塾生が300人ほど。福澤が教壇に立たずとも、寄宿舎住まいの学生は日常的に福澤と触れ合い、「知らず識らずの中に先生の薫化を受けた」(『木堂談叢』)のだった。後年、犬養は、どんな地位の高い者でも平気で呼び捨てにしていたが、福澤だけは終生「福澤先生」と呼んでいた。

ところが犬養は、卒業を目前にして慶應義塾を中途退学する。入学以来常に1位だったものが2位に落ちたことで自尊心が傷ついたためとも、郵便報知新聞社とけんか別れをして生活費に困窮したためとも言われている。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事