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【福澤諭吉をめぐる人々】
犬養 毅

2020/02/27

憲政二柱の神

明治23(1890)年7月1日、第1回衆議院議員選挙の投票が行われ、日本の議会政治が幕を開けた。金のない犬養は党首の大隈重信から150円を借りて岡山3区入りした。選挙民は、選挙の権利を行使できるのは喜ばしいが、さてこれは大きな責任問題である。慎重に人選せねばということで、知名度の高い犬養に白羽の矢を立て、演説を聞く段になったが、東京仕込みの流暢な演説をされては意味が分からぬかもしれない。そこで近辺でも随一の物知りに会場中央に座って、通訳になってもらおうということに決した。犬養は、この場で政見演説ではなく、国会や選挙の意義について長々と話したという。そして犬養は、25円ほどの費用で当選を果たした。この後も、犬養は金のかからない選挙活動で、生涯連続19回の当選を果すが、それは必ずしも平坦な道のりではなかった。

犬養は、清廉ゆえに金銭面では苦労した。政治資金がなくなると、財界で活躍し、面倒見のいい朝吹英二(福澤の姪の婿)に泣きついた。朝吹が金はないと断ると「俺は政治家だからないのが当たり前だが、お前は金儲けが本職じゃないか」(『故人今人』)と借りる身でありながら、憤っていたという。

犬養は、長い政治活動の間に、目まぐるしく所属政党を変えている。それは、周囲が党利党略を優先し揺れ動いたためであったとも言えよう。その嵐に晒されながら、藩閥政治や軍部介入を打破し、真の議会政治を実現しようとする犬養の政治姿勢は、「木堂」の号の如く、深く根を生やした大木となって、揺るぐことがなかった。

大正元(1912)年には、憲政擁護会の第1回大会が開かれた。犬養は、義塾の出身で盟友の尾崎行雄と結束し、打倒藩閥政治を訴える演説を行った。2人の演説会には、多くの聴衆が集まり、その演説に魅せられた。いつしか2人は、「憲政二柱の神」「憲政の神様」と呼ばれるようになっていた。一方、議会での2人の演説は鋭く厳しいもので、批判の対象となる相手から恐れられた。大隈は、犬養を「口は非常にわるく、何か脳に触れると、辛辣な毒言がただちに口を衝いて出る」(『木堂逸話』)と評している。

この政治運動は、第一次護憲運動と呼ばれる民衆運動に発展し、長州出身の桂太郎内閣を退陣へと追い込んだ。

偉功は百世不朽なるべし

満70歳を迎えた犬養は、念願の普通選挙が実現したのを機に、政界引退を決意し、議員を辞職する。ところが、犬養の辞職によって行われたはずの補欠選挙で、犬養が当選してしまう。世の中は犬養に穏やかな引退生活を許す状況ではなかった。

昭和6(1931)年12月12日、67歳の犬養に大命が降下し、翌日、犬養内閣が誕生した。かねてから軍備拡大ではなく、通商拡大で国力を高める産業立国を提唱していた犬養は、直ちに不況のきっかけとなった金輸出解禁をやめて再禁止にし、さらに満州事変の円満な解決を掲げ、民意を問うために実施した総選挙で大勝する。犬養は、国民の信任を背景に日中和平の実現に乗り出す。中国の孫文を始めアジアの革命家を支援してきた犬養には、中国との太いパイプがあった。しかし、和平工作は軍部や軍部に近い政治家に阻まれ、失敗に終わる。軍部の暴走は止まることを知らず、上海事変を起こし、昭和7年3月1日、満州国政府建国宣言が発表される。犬養は、特使を上海に派遣し、上海事変の停戦協定を成立させた。5月5日のことである

創立75 年記念式祝辞(部分) (福澤研究センター蔵)

5月8日、政友会の関東大会で、犬養は短い演説を行った。犬養はその中で、「われわれは、あくまで議会政治の妙用を信じ、十分改善の可能なるを信じるのである」とし、金のかからぬ選挙へ転換することで、腐敗した政党政治は改革し得るという考えを披露した。

翌日、犬養は三田の山上に姿を現した。この日、大講堂で慶應義塾創立75年の記念式が催された。犬養は、17年前の大講堂の開館式では「福澤先生の眼中には、すべてのものが平等である。(中略)貴賤尊卑という世間の待遇は、この山門をくぐればなくなって、すべての人が平等であった。(中略)これが三田の学風である。慶應義塾の塾風である」(『三田評論』第216号)と述べている。この言葉の通り、式典には首相としてではなく、塾員の一人という立場で出席し、「嶄然(ざんぜん)一頭地を抜きたるは、先師福澤先生の慶應義塾にして実に新文化の先導たり。其の国家に貢献したる偉功は百世不朽なるべし。(中略)不肖毅、社中の末班に居り此の盛儀に臨み俯仰(ふぎょう)の感に堪えず。一言祝辞を述べ、先師の遺業の益々光輝を発揚せんことを祈る」(『三田評論』第418号)と祝辞を読み上げた。

その6日後、首相官邸の客間で暴徒の銃弾に倒れた後も、犬養は一言も苦痛を訴えることなく、なお強い精神力で、「今の若い者を呼んで来い。よく話して聞かせる」と言った。その日の深夜、犬養は静かに息を引き取り、日本の政党政治は幕を閉じた。再び日本に政党政治が復活するのは、日本が敗戦を迎えるまで待たねばならなかった。

犬養は、自らを「犬養毅(いぬかいき)」と呼ぶことがあった。毅(き)は、毅然の毅であり、意志が強い、態度がしっかりしてひるまないという意味がある。犬養は、その名の通りの生涯を貫いたのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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