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【福澤諭吉をめぐる人々】
森田思軒

2016/11/11

  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

森田思軒(もりたしけん)(文久元(1861)年~明治30(1897)年)は、ジュール・ヴェルヌ『十五少年』やヴィクトル・ユゴーの作品の翻訳を世に送り出し、「翻訳王」ともいわれた人物である。翻訳文学が創作文学にも劣らない重要な使命を担っていた明治期に、思軒は翻訳文学の先駆者として、また、森鷗外や二葉亭四迷と並び、人気作家として名を馳せた。翻訳のみならず、新聞記者、批評家、随筆家としても文筆活動の幅を広げた人物でもあった。

幼少より「翻訳王」の力を養う

文久元(1861)年、備中国小田郡笠岡村(現在の岡山県笠岡市笠岡)で、父佐平、母直の長男として誕生し、文蔵と名づけられた。思軒の生家は靹屋(ともや)という屋号をもち、質屋を営む商家であった。父佐平は学問好きで号を三逕と称し書画にも優れ、暇さえあれば書物に読みふける根っからの読書人であったという。

思軒はこの父の背中をみて育ち、また、8、9歳頃には、父佐平から「西遊記」「水滸伝」「三国志演義」「金瓶梅」といった中国の四大奇書を読み聞かされて育った。思軒の年齢からすれば、難解であったと思われるが、佐平は真剣に熱く解説したという。

佐平は明治維新のはじめ頃、質屋を廃業して本屋に転業し、やがて笠岡の戸長に就任した。明治15年には、岡山県会議員に選出され、5、6代目の県会議長を務め、地方政治家として成功した人物でもある。さらに、佐平は明治6年に、岡山県で最初の新聞『小田県新聞』を発行、また『日用々文章』『童蒙習字本』『童蒙会話篇』なども発行した。思軒はこの父を「家君大人」と呼んで、敬愛していた。

また、幼少期の思軒に多大なる影響力を与えた人物として、思軒の大叔父である吉蔵がいる。大の地震嫌いであった思軒は小さな地震であっても、その度に吉蔵の家を避難所にして訪れていた。一日中山や田野を駆け巡り、楽しさのあまり、長いときには10日から1カ月近く大叔父の家に滞在したという。独学で国学、漢学に通じていた吉蔵は利発な思軒をかわいがり、ここでも「西遊記」「三国志演義」「水滸伝」などを読み聞かせてもらった。

このような環境が、思軒の翻訳家としての力を培ったに違いない。

慶應義塾で学ぶ

思軒と慶應義塾との繋がりは、明治7年5月、大阪慶應義塾に入学したことにはじまる。思軒は明治5年から、笠岡の遍照寺にある啓蒙所に2年間通っていた。成績優秀であったので、父佐平は、教授から思軒を都に出して修業させることを熱心に勧められた。佐平は笠岡村の戸長を務めていたことから、当時小田県権令であった矢野光儀と互いに知る関係にあった。光儀の子が義塾の分校の大阪慶應義塾、次いで徳島慶應義塾の校長を務め、後に新聞人として、また文学者として、あるいは大隈重信のよき片腕としても活躍する矢野文雄(矢野龍渓)であった。

親元を離れ、大阪慶應義塾で英語を学びはじめた思軒は未だ満13歳、毎日の心細さは、後に書かれた随筆集『尤憶記』によく表れている。例えば、父が大阪に送り届けてくれた際に泊まった旅館の近くを通る度に涙ぐみ、晩飯後には、他の塾生が散歩に出かけて空っぽになった塾で1人、母の手紙を取り出し、繰り返し読んだという。

大阪慶應義塾は、学生数の伸び悩みなどが原因で明治8年6月に廃校、徳島に移転して徳島慶應義塾となった。思軒も校長の矢野と共に徳島に移った。さらに明治9年春には、矢野が帰京することになると、思軒も共に上京、慶應義塾に入った。当時の入社帳を見ると、保証人の欄には矢野文雄の名がある。思軒はこの在塾中に大江孝之(敬香)や、後に憲政の神様といわれた尾崎行雄らと三田四国町の同じ下宿で過ごした。大江は後に、3人で「昼は書を読み、夜は相携えて寄席に赴き欝を散じた」と回想している。

思軒は、翌10年4月に義塾を退学して帰郷した。その理由は定かではないが、思軒にとって慶應義塾で学んだこの時期は、新しい西洋の学問と向き合うための基礎学力としての英語力、未開拓の領域に分け入らんとするパイオニア精神を身につける時期だったといえよう。また、矢野文雄と出会い、大阪、徳島、東京と行動を共にしたことは後の人生に大きな影響を与えることになった。

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