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【福澤諭吉をめぐる人々】
森田思軒

2016/11/11

福澤諭吉と父佐平

慶應義塾に学んだ思軒ではあるが、その期間は短く、福澤とどの程度の接触があったのかは定かではない。思軒の書く文章に慶應義塾に在学していた時期のことや福澤について触れている文章をあまり見つけることができないのである。しかし、福澤を敬愛する思軒の姿を示すエピソードがある。

明治22年4月27日、時事新報の雑報記事の中に、福澤が長男一太郎の結婚披露の宴で行った演説が掲載された。この掲載記事を読んだ思軒は、「人の父たるものの慈、実に此の如き哉」と感激する。思軒にとって福澤の演説は、まさに父佐平の自分に対する慈愛を想い起こさせるものであったのである。その様子は自身著の「消夏漫筆」に見ることができる。この要約が『明治の翻訳王 森田思軒』(谷口靖彦著)で現代文に直して紹介されているので、ここに引用する。

「昨日、郵便報知社に行き、たまたま時事新報をめくって、福澤諭吉先生の令息一太郎君の結婚披露宴についての演説記事を見つけた。その記事を読み終えると、ひとりでに涙が瞼にうかぶのを覚えた。人の父たるものの慈愛とは実にこのようなものであるか。私はここにおいて益々、吾が父の慈愛のはかりしれないことを感じた。文章で人を感動させることは得やすいが、人を薫ずる(香りのように徳をもって感化する)ことはむずかしいものだ。あの福澤先生の演説は、朝もやのように和やかに、よい香りで人を感化するものである。私はこの記事を郷里に送って、一家団欒、幸福和楽の吉飾にしようと思う。」

思軒は、時事新報の記者であった渡辺治に会った際、このように語った。その傾倒の情に渡辺は、編集局にあった先生自筆の原稿を送ってくれたという。

翻訳家への道

慶應義塾を退学した後、思軒は故郷笠岡に戻り地元の興譲館という漢学塾で学んだがここも途中で退学した。その思軒に再び上京の契機をつくったのがやはり矢野文雄であった。明治15年、思軒は再び郷里を離れ上京するが、この頃の思軒は漢学をさらに深く学ぶことや、政治活動にも興味をもっていたという。当時、思軒は満21歳。現代社会であれば、就職活動や今後の進路など自分自身の将来について考え揺れ動く時期でもある。思軒も同じように自分自身が何をしたいのか、また何をするべきなのかを模索していた時期だったのかも知れない。

しかし、矢野が社長を務める『郵便報知新聞』の報知社に入社した思軒は、矢野の忠告に従い西洋の文学に転換した。独学で万国史、英国史、ローマ史、ギリシア史を読破したという。その知識と漢文の素養で矢野の歴史小説『経国美談』に協力し、文筆家として認められるようになった。

記者としての思軒は、明治18年矢野の指示で清国に赴き、日清談判や天津条約締結の記事などの執筆にあたる。さらに年末から翌年の夏にかけて、英国の立憲政治と新聞事情の視察と研究のためにイギリスを訪れていた矢野からの誘いで、欧米視察旅行に出る。矢野と共にヨーロッパ各国を巡り、ドイツの宿では『レ・ミゼラブル』の英訳版を読んだとの記録もある。ロンドンからニューヨークを経由して、サンフランシスコから帰国の途につく。

帰国後は、矢野の発案で新聞に新設された小説欄の執筆を思軒が担当することとなる。この出来事が翻訳家としての出発点となった。

『十五少年』の翻訳

思軒が翻訳した作品には、ユゴーの『探偵ユーベル』やローマの文学者アプレイウスの古典『メタモルフォーセース』の中にある「黄金の驢馬」を抄訳した『金驢譚(きんろものがたり)』、フランスの科学冒険作家ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)の作品などがある。思軒は特にヴェルヌの作品を好み、12作品の翻訳を手がけた。

中でも有名なものが、『十五少年』である。ヴェルヌの作品『二年間の休暇』を翻訳し、明治29年に博文館の少年向け総合雑誌『少年世界』で連載したもので、英訳されたものを日本語訳した「重訳」である。ニュージーランドを舞台としたこの作品は、チェアマン学校の生徒たちが2ヶ月の夏の休暇を利用して航海しようと乗り込んだ船の纜(ともづな)が解け太平洋に漂流してしまい、2週間の嵐を乗り越え無人島に漂着するところから物語が始まる。8歳から14歳までの国籍の異なる15人の少年たちが、この無人島で2年間を乗り越えて無事に帰国するまでの冒険を描いた漂流記である。

児童文学史研究でも著名な元幼稚舎教諭の桑原三郎氏は、「思軒の『十五少年』は、言わば、この後に続いた少年冒険ものの先駆と言えましょう。」と記している。連載終了後には単行本が出版されて多くの青少年に親しまれ、児童文学の古典といわれている。現在では他の翻訳家による『十五少年漂流記』という題名で児童文学の世界でも広く長く読み継がれる作品となっている。

思軒は、『十五少年』連載終了の翌年、36歳で早世した。40歳になったらと前から語っていたユゴーの『レ・ミゼラブル』の翻訳に取り掛かっていたところであった。思軒が果たせなかった『レ・ミゼラブル』の翻訳は、思軒と親しく同じく義塾に学んだ黒岩涙香に引き継がれることになった。

『十五少年』初版(博文館、明治29年12月。慶應義塾幼稚舎山田文庫所蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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