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【福澤諭吉をめぐる人々】
矢野文雄

2021/07/27

大活躍の明治10年代

矢野は政変後も大隈の傍らで彼を支える一人となった。大隈と謀り『郵便報知新聞』を買収して社主となる一方、主筆藤田の下に箕浦勝人(みのうらかつんど)、尾崎、犬養らを揃えて三田派の言論機関とし、共に論陣を張った。翌年3月には大隈が結成した立憲改進党に参じ、また10月に開校した東京専門学校(現早稲田大学)へも議員として加わっている。

官吏となる前から、矢野は義塾系のさまざまな演説会で、その弁舌によっても知られていた。尾崎行雄は、矢野がある時、白紙を巻物状にしたものを右手に高く掲げ、それを荘重に振るという趣向を交えて演説したことを紹介して、こう言っている。

「…私は今日まで随分いろいろの演説を聞いたが、この時の矢野君の演説位立派なのは、日本では聞いたことはない」「矢野君のことであるから、いづれ幾日も前から考へてその振り方の如きも、いろいろ研究を凝らしたものであらう。」(尾崎『近代怪傑録』、1934)。

矢野は立憲改進党の勢力拡張のため、自らの弁才を駆使して各地を遊説する一方、著述活動にも力を入れた。

翻訳書の読み方を指導した『訳書読法』(1883)、立論行論の工夫を説いた『演説文章組立法』(84)通俗平易な日本語の実現を説いて漢字制限論にまで及んだ『日本文体文字新論』(86)の出版は、どれも日本の言論のために行った重要な仕事である。また明治17年から19年には、西欧を歴遊しながら『周遊雑記』(86)を著すなど、甚だ精力的に活動を続けた。

『齊武名士経国美談』前篇(国文学研究資料館所蔵)

この間、彼の名を高めたのが、ギリシア史に仮託して民権思想を鼓舞した小説『齊武名士 経国美談』前後篇(83~4)である。政治小説という手法と共に、これが速記者を用いて書かれたことも斬新な試みで、矢野は速記法とは何かを紹介した上、速記文の実物まで示している。

なお、徳富蘇峰(とくとみそほう)は、文はさほど過激でないが内容は暗殺奨励という『経国美談』の趣向を引きあいに、温厚で紳士的な外見に反し思想は大胆で急進的であった矢野を形容して「まるで蒔絵(まきえ)の重箱の中に、ダイナマイトを入れたやうなところがある」と言っている(『大事小事』)。

政界引退とその後

しかし多忙な中で、度々体調を崩した矢野は、帰国後に報知社の大改革を行い、これが軌道に乗ると、自ら休養を決意した。明治22年2月、40歳を前に政界からの引退を表明、翌年11月には宮内庁へ出仕した。初の帝国議会が開かれたその日、先頃までの同志政敵が居並ぶ議場には、天皇の侍従として佇立する矢野の姿があった。

ただ『経国美談』の著者として、その存在感はなお大きく、世の海外雄飛思想を刺戟した海洋冒険小説『浮城物語』(90)が世に出ると、文壇対大衆文学の論争(柳田泉)の種(たね)となった。

彼を忘れなかったのは大隈も同じで、2度目の外相となった大隈に強く望まれ、矢野は明治30年3月から32年1月まで、清国駐箚(ちゅうさつ)特命全権公使を務めもした。外交畑は初めての矢野には不案内なことが多かったはずだが、日清戦争後の清国で、李鴻章(りこうしょう)ら高官と渡り合い、また光緒帝(こうしょてい)や西太后(せいたいごう)への謁見も実現した。この間には列強に蚕食されつつある清と交渉して福建省の不割譲を確約させたり、日本への留学生派遣を清側に提案したりと積極的に活動したことが知られている。

公使退任後の矢野は、『近事画報』の顧問として國木田獨歩を引き立て、さらに大阪毎日新聞社で監査役や副社長を歴任した。大正末年までなお多くの書物を書いたが、この後期の著作でとくによく知られるのは、漸進主義的な社会改良を念頭に社会主義市場経済を論じ『新社会』(1902)と、その理想を小説化した『不必要』(07)であろう。民意反映の方法として直議制(直接投票)を紹介した『新社会』は、ネット選挙が現実問題として議論される今、改めて注意されてもいる(野村英一『慶應義塾 三田の政治家たち』)。

福澤が見込んだアンシクロペディスト(百科全書派)・矢野文雄は、人類の福祉を願いつつ晩年を送り、昭和6(1931)年6月18日、82年の賑やかな生涯を静かに終えた。墓は多磨霊園にある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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