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【福澤諭吉をめぐる人々】
徳富蘇峰

2020/01/29

徳富蘇峰(国立国会図書館ウェブサイトより)
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

徳富蘇峰(とくとみそほう)は近代日本を代表するジャーナリストである。94年の生涯で350冊に及ぶ膨大な著作と無数の新聞雑誌記事を残し、その思想は各界に影響を与えた。生涯で2度しか顔を合わせていない蘇峰と福澤はいかなる関係にあったのだろうか。

蘇峰の生涯

蘇峰は文久3年1月25日(1863年3月14日)、肥後国上益城郡津森村字杉堂(現熊本県熊本市)にて父・徳富一敬と母・久子の5人目の子、長男として生まれた。本名は猪一郎(いいちろう)。弟の健次郎は作家徳富蘆花として知られる。蘇峰は同志社で学び、東京に出て『東京日日新聞』への就職を目指したが失敗に終わり、故郷へ帰り共立学舎で学んだが、短期間で終わる。明治15(1882)年、自ら大江義塾と名づけた学校を創設し教鞭をとった。同年、東京に2度赴き板垣退助をはじめとする多くの自由民権運動関係者や新聞記者を訪問した。2度目の上京では福澤諭吉に面会している。

19(1886)年、『将来之日本』を発刊し論壇に登場し、家族を伴い上京する。翌年、民友社を設立し、『国民之友』を発行し、23年には『国民新聞』を発行し始める。若き蘇峰は平民主義を唱え、論壇に新風を吹き込んだ。29(1896)年、深井英五とともに欧米旅行に出発し、主要新聞社を訪問し、ロシアではトルストイに会った。トルストイは蘇峰を「大金持ちらしい」「あちらの貴族」と綴った。なお、徳富蘇峰記念館にはロシアで拾って持ち帰った枯れ葉が保存・展示されている。

さて、蘇峰は30(1897)年に板垣や大隈重信が入閣した第2次松方正義内閣で内務省参事官に就任する。38(1905)年、国民新聞社が日露戦争の講和条約締結を支持したため、条約反対の民衆によって社屋が焼き討ちに遭う。44(1911)年、勅任貴族院議員となる。大正2(1913)年、国民新聞社が桂太郎の新党を支持したため、憲政擁護運動に立ち上がった民衆によって2度目の焼き討ちに遭う。大正7(1918)年からは『近世日本国民史』を執筆し始め、昭和27(1952)年に全100巻で完結する超大作となる。

昭和4(1929)年、資金提供を受けた根津嘉一郎との関係が悪化したため、蘇峰は国民新聞社を離れ、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』の社賓となる。17(1942)年には大日本言論報国会会長となり翼賛体制づくりに貢献し、翌年、文化勲章を受ける。20(1945)年の敗戦に際してA級戦犯の容疑者に指名されたため、翌年の公職追放後、貴族院議員や文化勲章などを辞退し、隠居する。22年、A級戦犯の容疑が解け、自宅拘禁が解除される。そして、昭和32(1957)年11月2日、熱海において94歳で死去した。

若き蘇峰の政治的姿勢

蘇峰は自ら主筆を務める『国民新聞』上で自由民権運動の流れをくむ民党を応援した。その姿から「蘇峰は藩閥打破の喇叭隊長として高名なりき」(鳥谷部春汀)と言われるほどであった。しかし、蘇峰の目指すところは官民を問わず進歩的勢力が団結して保守的勢力に対応することにあり、自らが主張する平民主義を推進する政治家には期待を寄せた。最初は伊藤博文が在野の勢力を糾合することに期待したが、議会開設が近づくと、黒田清隆内閣で外 務大臣に起用された大隈重信に期待した。改進党の合同構想に関わり、議会開設後は民党間の結合を言論で支援するだけでなく、陸奥宗光との人脈や九州の自由党の人脈を生かして進歩派結集の芽を育てようとした。

その上で藩閥政府内に進歩派と保守派の対立を生み出せば、結合した民党が政府内の進歩派と結びつくことで進歩派政権が成立すると考えた。議会に民党という基盤をもって政治を行う形での責任内閣を実現しようとしたのである。しかし、自由党が第2次伊藤内閣と接近したことで蘇峰の構想は挫折した。蘇峰は日清戦争前後に伊藤内閣攻撃に転じ、広く共感を得られたことで保守派とみなしていた人々との協調関係がうまれ、大隈と松方正義の連合による政権構想を抱くようになる。その構想が実現したのが、30年に大隈が外務大臣として入閣して成立した第2次松方内閣(松隈内閣)であった。この内閣で内務省に入った蘇峰は周囲から変節と批判されることになる。

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