三田評論ONLINE

【三人閑談】
プラネタリウムを見上げて

2025/07/25

  • 井上 毅(いのうえ たけし)

    明石市立天文科学館館長。
    名古屋大学大学院理学研究科大気水圏科学専攻修了。1997年明石市立天文科学館学芸員、2017年より現職。山口大学時間学研究所客員教授。著書に『星空をつくる機械』。

  • 五藤 信隆(ごとう のぶたか)

    株式会社五藤光学研究所代表取締役。
    1989年慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業。1926年創業のプラネタリウムメーカー代表として、国内外にて数多くのプラネタリウム製造を手掛ける。

  • 松本 直記(まつもと なおき)

    慶應義塾高等学校教諭。
    1997年横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了。専門は地学教育。慶應義塾高校プラネタリウムを理科教育に活用。著書に『はじめて学ぶ大学教養地学』。

プラネタリウム100年を迎えて

五藤 2023年は、ドイツ博物館でのツァイス社製プラネタリウム試験公開から100年という節目の年でした。この3年間、国内外の各地で記念イベントが行われ、5月24日には井上さんが館長を務める明石市立天文科学館でフィナーレイベントが行われますね。ドイツ博物館ではいつからプラネタリウムの一般公開が始まったのでしょうか。

井上 1925年5月7日です。この日はドイツ博物館創設者で、"地上に星空を展示する"アイデアを発案した土木技術者オスカル・フォン・ミラー(1855-1934)の誕生日でした。プラネタリウムがドイツ博物館新館で一般公開されたのはミラーの70歳の誕生日でした。

五藤 プラネタリウム発案者の誕生日を公開日としたのですね。

井上 その日のミラーはとてもテンションが高かったそうです。

五藤 井上さんのご著書『星空をつくる機械──プラネタリウム100年史』は、プラネタリウムの歴史を知る上でとても貴重な資料ですね。

井上 本を書くためにいろいろ調べました。おかげで面白いこぼれ話にもたくさん出合えましたよ。

五藤 五藤光学研究所にもプラネタリウムの歴史にくわしい社員がいます。彼も日本はもとより世界中のプラネタリウムについて熱心に調べています。

井上 児玉光義さんですね。私もとてもお世話になりました。五藤光学研究所に何度も通い、たくさんお話を聞かせてもらいました。中でも創業者の五藤齊三(せいぞう)(1891-1982)さんのエピソードが熱かった! 齊三さんは五藤さんの曾祖父にあたる方ですね。

五藤 そうです。五藤家は望遠鏡の製造販売を家業としていました。曾祖父はもともと日本光学工業(現ニコン)で技術者として働いており、ドイツ人技師のもとでレンズ、天体望遠鏡の技術を習得しました。

国立天文台がまだなかった時代、帝国大学附属東京天文台の望遠鏡等の観測装置はほとんどが舶来品か、日本光学工業製の高価な製品でした。そうした中で、曾祖父は「天文教育を広めるために安価で質の良い装置が必要だ」と考え、望遠鏡を作り始めました。五藤光学研究所が最初に作った天体望遠鏡は口径が1インチ(2.5センチ)のものです。

曾祖父は朝日新聞社と皆既日食の共同観測を行っています。自社の望遠鏡を使って北海道の興部(おこっぺ)で観測したそうです。

松本 北海道での観測というと、1936年ですね。

井上 この時の観測の成果はすぐに米国『アマチュア・アストロノミー』誌に掲載されました。

国産プラネタリウム誕生前夜

井上 1948年に行われた礼文島での全環皆既日食の観測では、米国の観測隊が観測装置を持ち込むにはあまりにも大がかりになるからと、日本側に協力を呼びかけたそうですね。日本で作った機械はそのまま日本に残される約束でしたが、五藤光学製の装置がとても高性能だったため、米国の観測隊が持ち帰りました。五藤光学研究所の名が米国内で知られるようになった出来事でした。

五藤 当時の記録写真がすべて当社に残っています。

井上 五藤齊三さんが天文の世界に入っていく話は日本のプラネタリウムにとって前史にあたる部分です。五藤光学研究所は2026年に創業100年を迎えるのですよね。

五藤 そのとおりです。会社の歴史を今、一生懸命活字にしています。

井上 私が「齊三さん、熱い!」と思ったのは、天文に目覚めたきっかけがハレー彗星だったことです。

五藤 最近では1986年に、ハレー彗星が日本に最接近し各地で観測されましたが、曾祖父が見たのはその前のハレー彗星でした。

井上 1910年のことです。当時は地球が彗星の尾を経過するほど接近し、世界中が大騒ぎになりました。齊三さんは19歳の時にトイレの窓からハレー彗星が空に長大な尾を引いている様子を見て驚き、天文に目覚めたという絵に描いたようなエピソードがあります。

五藤 私よりくわしい(笑)。曾祖父が書いた『天文夜話』によると、海外のいろいろな場所に視察に行き、北京天文館で見たプラネタリウムの機械に感動したそうです。そして「天文教育にはこういう機械が必要だ」と感じ、プラネタリウムの国産化を目指し始めました。

「モリソン型」の先見性

五藤 しかし、反対もあったようです。帰国後に天文学を研究していた国立大学の先生方に相談したところ、「やめたほうがいい」と言われています。頑固だった曾祖父はそれでも作るんだと、1950年代に製造に着手し、見本市にテスト機を出品しました。

井上 1959年の「東京見本市」ですね。齊三さんがこの時に発表したのはM - 1型と呼ばれる装置でした。

ちなみに、1925年にドイツ博物館で一般公開されたプラネタリウムは、ドイツの空しか映せない機械だったのです。その後登場した世界中の星を映し出せる機械は、北半球と南半球2つの恒星球を持つ"ダンベル型"、通称「ツァイス型」と呼ばれる投影機でした。

ダンベル型は世界中に広がりますが、第二次世界大戦でドイツが敗戦国となったことでツァイス社はプラネタリウムを生産できない状況になります。その一方で、スプートニクが打ち上がり、宇宙への関心は高まっていきました。

国産プラネタリウムの機運が高まったのはそうした中でのことです。五藤光学研究所が1959年に発表したM - 1型は、「モリソン型」と呼ばれる形です。現代のプラネタリウムに通じる設計に、私は齊三さんの大変な先見の明を感じます。

五藤 モリソン型はカリフォルニア科学アカデミーが開発した装置ですが、曾祖父が独自にこの形に辿り着いたのは、恒星球を映す重い球体が両極に分かれると駆動が大変だからです。重いものは中心に集める、という発想でこの形になりました。

松本 ツァイスII型に代表される最初期はダンベル型が主流でしたね。

井上 ミノルタ(現コニカミノルタ)はダンベル型を採用し、五藤光学はモリソン型を採用しました。このモリソン型はかなり古いタイプの装置も残っており、現役で活躍しているものもあります。

松本 惑星はその名のごとく不思議な動きをしますが、プラネタリウムの装置は惑星ごとに異なるパラメータの機構を搭載し、それぞれの動きを再現できるようになっています。

五藤 昔の機械は惑星の動きを歯車の数と歯車の角度で再現していました。今や骨董品かもしれませんが。

松本 今の仕組みは違うのですか?

五藤 今はすべてコンピュータで計算して動かせる機械が出てきています。これにともない、機械もどんどん小型化しています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事