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【三人閑談】
福澤諭吉の「書」

2024/02/26

書作を始めたきっかけ

西澤 「書を求められるぐらいだったら頭を殴られるほうがいい」と言っていたとのことですが、やはり福澤は自分が書を学問として習っていないとか、手本となる父親も早く亡くなっているので、何かコンプレックスのような思いがあったのではとも思うのです。本当に書くのが嫌な時があったようで、揮毫を求めるほうは覚えているけど、求められたほうは覚えちゃいない、「ああ面倒」と書いて渡したりしています。

鈴木 福澤は漢詩と書作をほぼ同時に始めたようですね。大学の書道会の機関誌「硯洗七六号」に書道会の会長である福澤研究センターの都倉武之准教授が書いています。明治11年に中村栗園(りつえん)という百助(ひゃくすけ)のお父さんの親友だった漢籍の達人から、「洋学ばかりで漢学を何もやらないのは親不孝」だ、などというようなことを言われて衝撃を受けたそうです。

それで自分は間違っていたと思い、素直に謝る。そして、頼まれれば書を書き、また、同時に漢詩もつくり始めたような感じがします。

西澤 たぶん、明治20年代ぐらいまではかなり忙しくて、ゆっくり揮毫をする時間を取ることができなかったんだろうとは思います。

鈴木 そうですね。明治11年は西南戦争が終わって世の中が安定し、漢詩がブームとなって知識人の間で流行した。中村栗園から言われて漢詩と書を、ほぼ同時に始めることになり、結果としてはすごくいい転換になったわけですね。お父さんの百助はとても真面目な方で、漢籍の学者であり、書も得意で立派な作品が残っています。

西澤 最近、父百助の新たに上士との交流がわかる書簡も見つかっています。福澤は『自伝』で少し自虐的に書いていますが、下士階級ではあるものの、百助は藩の経理部門でかなり力を発揮していた人物なのではないかと思います。

堂々と書く自信

鈴木 「奉弔仙千代君」という書幅があります。これは明治11年に福澤が本格的に書を始める前の作品です。これだけの書をちゃんと書けるところまで父や兄の書を見ながら練習していた。これは仙千代君(せんちよぎみ)という奥平家の先祖を悼む長文の作品ですが、謹厳実直というか整ったいい作品だと思うのですが。

「奉弔仙千代君」(『福澤諭吉の遺風』時事新報社 より)

名児耶 これは他のものに比べるとあまり崩していないですね。習作で真面目に書いているというか。流れで言うと、やはり後のほうがいいですね。でも、習い始めでこれだけ書けるのはすごい。当時の人たちは普段から字を書いていて、その基盤があるのでここまで書けるわけです。

やはり元の殿様に差し上げるため、緊張しながら何枚も練習したかもしれず、作品としてもきちんとしていますね。これは、やはりハレの字ですね。

鈴木 そう、ハレの作品ですね。

名児耶 書家の人たちだって、字間や行間、要するに間まを自分のものにして書けるようになるには相当書かないとできない。でも、最初からこれぐらい書けたわけですね。

「独立自尊」を見ても、書きぶりが、堂々として筆に自信を持っていて迷いがないです。しっかり自分のものになっていますよね。だからいいのだと思います。

鈴木 福澤の書に共通するのは、大らかで温かく優しい人柄の反映と思います。自然でてらいのない書きぶりというか、見る者を穏やかな気持ちにさせるような安心感、安定感があると思いますね。

名児耶 そうですね。当時の人たちは皆、そうだと思うんです。他の有名な政治家などの字を見ていても、皆それなりの形でまとまっていて、恥ずかしいと思って書いている人はいないと思うんです。堂々と皆書いていて、それでいいんです。

鈴木 金文京先生(京都大学名誉教授)によれば明治14年9月に中村楼で開かれた「書画会」に福澤は小幡篤次郎や中上川彦次郎らとともに自分の書を出品しているんですね。「高名大家」が居並ぶこの書画会に出品するというのは、それなりに自信があったのかもしれませんね。

名児耶 そういうこともあったのですね。

鈴木 福澤の書の特徴を考えてみると、まず1つは自分で詠んだ漢詩、自分で作った言葉や字句、それだけを書いていて徹底している。「自詠自書」です。明治の政治家、革命家の西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文たちもそうですね。明治の人たちは、漢籍を学び書を能くし、漢詩を創作するスタイルを早くから身につけていたと言えるのかもしれません。

揮毫を頼まれて渡す時には、戯れにとか、そういう若干自虐的な遠慮みたいなものを添えて渡したりしている。「三十一谷人」という「世俗」という字を分解して落款印にする遊び心がある。ユーモアというものが、漢詩や書にしても、自分を表す上で大変大事な要素と考えているように感じます。

和様と唐様

名児耶 そうですね。真面目一方でいく人もいますけど、江戸時代以来いろいろな諧謔的な芸もあります。

鈴木 狂歌、川柳も。

名児耶 そうです。また、江戸になると細井広沢とか文人を中心に唐様というのが入ってきて教養の1つのシンボルのようになって幕末を迎えます。隷書や篆書などを書いている人もいる。そういう人が江戸時代でいうと教養のある人間というイメージですね。

だから幕末の志士や明治維新を起こした人たちは、やはり唐様の流れのものが文人的で教養だという発想があって、そういう字を勉強しているのかもしれません。

鈴木 皆すごく勉強しましたものね。

名児耶 極端に言えば唐様イコール教養となり、漢字を並べて書けばもう教養のある人物に見えてしまう。でも、よく見ると中国の字が直線なのに対して日本の字は曲線が主体なんですよ。歴史的に見て曲線でできた字が美しいのです。(小野)道風などが作った漢字の「和様」は、字は同じでも、やはり曲線主体に変わってくる。

だから歴史的な背景を見ても、江戸から明治にかけても、教養として中国風を勉強するけど、実際に書いているのはケの世界とも近い。中国風の唐様を勉強しても、基本的に本当の唐様というのは江戸の初めだけであって、字を見ていると、もう和漢折衷、和唐一緒なんですよ。

鈴木 なるほど。

名児耶 気持ちは中国風の文人なんですけど、やはり日本人なんですよね。だから、幕末の三筆(巻菱湖(まきりょうこ)、貫名菘翁(ぬきなすうおう)、市河米庵(いちかわべいあん))を見ていても、純粋な中国の唐様と違う、結局、半分和様なんです。

鈴木 そうなんですね。それで、皆が俳諧をやり、川柳も狂歌も和歌をやる。みんな洒落ている。

名児耶 それは必要なことで、当時は皆そういう部分があったと思います。

鈴木 例えば、落語で吉原の噺に必ず出てくる「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸は、長州の高杉晋作の創作なんですね。それが吉原で全盛の太夫の唄になり、いろいろ下々でも歌われる。しゃれや遊び心を含め、それだけの素養を明治の元勲や活躍した政治家たちは持っていた。

名児耶 心の余裕がなく、真面目なばかりではたぶん生きていけないわけです。

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