【三人閑談】
福澤諭吉の「書」
2024/02/26
「ハレ」の字、「ケ」の字
名児耶 また、書き文字の場合、必ず、「ハレ」の世界、「ケ」の世界があるんですね。
一番わかりやすいのはお経で、いまだに楷書で書くんですね。読み方も入ってきたままの音で、日本的に読まない。つまりそれは向こうの文化、文字を尊重してそのまま継承していくという世界です。だけど、日常的に使う字は楷書で書いていたら大変ですから、皆、行草体で書いています。
そのモデルになったのが王羲之の書。日本は奈良時代から多くは王羲之の書が基盤になっているわけです。これは基本的に「ケ」の世界です。ただ、ケの世界にもまたハレとケがある。手紙は、まさにケの代表ですが、目上の人に詫び状を書くときにラフな字で書かないですよね。
鈴木 それはそうですね。
名児耶 それから、かな文字も、日常的な日本語の表記ですから、漢字のお経などに対してはケの世界なわけです。和歌を書く時に、漢字を使って直線的な字で書くのでは合わないので、「かな」が生まれていく。
そして、同じかなでも今度は和歌をきれいに清書する時の古筆(こひつ)というきれいなかなが出てくる。あれもかなの中でのハレです。
それから、勅撰集でいうと、まず漢詩集があるんです。ハレの舞台の詩集です。でも、和歌でもやりたいという要望が出てきて古今和歌集ができたと思うんです。ということは、あれはケの世界だったものが晴れ舞台に出るわけですよ。
鈴木 なるほど。
名児耶 そう考えると、福澤諭吉とか普通の人は、あまり楷書を書かないんです。行草なんです。普段使っている字です。そういう普段書くケの世界の字で力を発揮して書いている人たちです。
名品として残っているもので手紙が多かったりするのは、本来ケの世界の物なんですね。王羲之だってほとんど手紙ですからね。
鈴木 空海もそうですね。
名児耶 空海も最澄もそうです。皆、手紙が名品になっているわけです。
だから、書を見る時に、何を、どういう状況で書いたのか、つまり、晴れ舞台なのかそうでないのかと大雑把に分け、その晴れ舞台の中でも、本当に正式なハレの要素があるのかを見る。そうしないと、その人の書いた日常的な字が、清書した字に比べて似ているとか似ていないというだけでは、正しい判断はできないと思います。書き方が変わるわけですから。
鈴木 ハレというのは正式というか公的なもので、ケというのは、非公式で日常的な面ということですね。
名児耶 そうです。カジュアルに書いた手紙にはやはり魅力的なものがある。だから、書を見てその人を味わおうとしたら、やはりハレよりケのほうがいいということですね。
福澤の書を見る
名児耶 「書は人なり」と言われる。あれも誤解されやすいんですが、書を見てその人の性格がわかるとかではなく、書を見ればその人の何かを感じるということで、1人1人違うから書を見たらその人に思える、ということだと思うんですよね。
鈴木 そうですね。誤解されている部分ですね。
名児耶 そういう意味では、福澤の書というのは、はっきり個性が出ていて魅力的です。書家から見ると字を大きくしたり小さくしているのが不自然だとか言う人がいるかもしれないけど、それも個性です。
この「慶應義塾の目的」は漢字とかな交じりで、上手くまとまっていますよ。これだけ漢字とかなを一緒に書いていても自分のものになっているからいいと思いますよ。これはかっこいいですよね。
鈴木 とってもいい。きれいな並び方になっているし。
名児耶 私からすると、かなももう少し漢字に近いような形の大きさでもいいけど、漢字は大きくかなは小さくと書き分けている。
鈴木 一番有名なこの「独立自尊」の扁額は、中学・高校の書写・書道の教科書にも出ています。
名児耶 これもいいですよね。これぐらい書けと言われても書家の人だって普通は書けないですよ。形は上手く書けても、できたものが人を惹きつけるかどうかはまた違う。
鈴木 そこですよね。この扁額が教科書に採用されているのも、近代日本の思想家の普遍的な美しさがある書だからと思うんです。
名児耶 軸装書幅の「独立自尊迎新世紀」もいいと思いますよ。これはちょっと福澤諭吉にしては字間をたっぷり取ってあって。
まず何を感じるかというのは、その人の独特の、書く時の感覚というんですかね、それが筆を通して筆線に現れてくるんですよ。だから同じ「一」を書いても、100人書いたら皆違う。それが魅力的な線なのかどうかはまた人によって違う。
また、線質の中にその人の、何というか感情のような何かが出てくるんですね。これが面白いところなんです。同じように間を取って書いてある作品があっても、片方はよく見え、片方はそう見えない。
寸法を測ると同じなのかもしれないけど、書く時に一定の時間で書きますよね。それを実際に見ているわけではないのですが、「あ、これ、すごく自然だな」と感じるんです。つまり必然性を感じます。ここにこの線でこの墨の量で書かれていることが気持ちいいよね、と感じられるといい書なんです。
全部とは言いませんが、福澤作品を見ていて、私がいいなと感じるものがいくつもあります。書道史の伝統と見比べての上手い、下手はあって、書の先生が、「字ではない」と言ったというのはそちらの部分です。でも、もう1つの、「いいかどうか」というのは別で、それも一緒に見なければいけない。
手紙の良さ
鈴木 ぜひご意見をお伺いしたいと思う作品がいくつかあります。
まず、「父母生吾妻輔吾」で始まる日本郵船の社長だった吉川泰次郎に、病気見舞いに米を入れた袋とともに送った手紙です。これは「題手用之米臼」という七言絶句に「米は老生がついた白米。おもゆにして食べてください」と弟子への思いやりをこめて書いてある。走り書きして書いた、そのスピードが見えるような手紙です。
慶應義塾大学書道会の講師をしている望月擁山(ようざん)さんが、顔真卿(がんしんけい)の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」、自分の息子と自分の親友が殺されたというのを知って顔真卿が家族に急いで書いた名品──と言われる手紙を思わせると言われた。同じように福澤の優しさ、温かさ、思いやりが出ているのではないかと思うのです。軸も残っていますが、手紙のほうがよりよいように思うのですが。
名児耶 同感です。ケの作品のよさがよく出ている。この場合は、手紙のほうが魅力的ですね。
鈴木 やはりそうですか。
名児耶 手紙はパーッと書いて、何か乱れてるなとか、乱暴だなとか、ついそう見ますけど、昔の人の手紙はいいですよ。自然に出るんでしょうね。自分の持っているものが。
鈴木 気持ちがね。お米を30年あまり愛用している米臼で搗いて贈った。それを食べてくださいという手紙を添えているわけですからね。
西澤 字のバランスも工夫して、断りの手紙の時には「断る」という字をちょっと大きく書いたものも残っていますね。
また『時事新報』で論説を書いていた時に、時事新報社と福澤の自宅を行き来する状箱があるのですが、それがある時なくなってしまう。「福澤先生の家に行ったきりなんじゃないですか」と聞かれて、福澤は「いや、そんなことはない。返したはずだからよく探せ」と言うのですが、しばらくしたら福澤の箪笥から出てきたんです。
その時に事務の責任者である中島精一に宛てた手紙が「平身低頭恐れ入り候」という一文から始まって、最初はしっかり謝っているんですが、結局その手紙の内容は、「自分のところから見つかって赤面の至り。でももし自分が一層の悪人であったら、箱はなかったことにして窃(ひそか)に燃やしてしまう。恥を忍んでこうやって返しているんだから、君たちは許したまえ」と(笑)。
1行目の平身低頭というところは、近世文書で民がお上にお願いするような形で書いていますが、その後は、いつもののびのびとした字体で開き直っているのがすごく面白い。
鈴木 それは面白いね。
西澤 上司にしたら嫌だなと思います(笑)。
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