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【三人閑談】
福澤諭吉の「書」

2024/02/26

幕末期の書が持つエネルギー

名児耶 日本は向こうから入ってきたものを日本化していくのが上手いと言うけれど、この気候・風土の中で「かな」を生んだように、やはり日本人特有のものがあって、それというのは消せないと思います。

幕末から明治の人たちを見ていても、中国的なものと日本的なものとミックスされている不思議さを感じます。そういうところが書に残されてわかりやすく出てきている。書とはそういうもので、その時代を反映している。そこが面白いです。

今、日本の書の世界には変体仮名、行書、草書があり、楷書も篆書も隷書もあります。こんな国、他にないですけど、これは日本人にとっては、その中で生活していろいろなものを伝えるのにいいのだろうと思います。

鈴木 福澤の同時代の人たちの書で、例えば西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文や勝海舟などと比べてみるとどんな感じがされますか。

名児耶 字として福澤が落ちているということはまったくなく、あの当時の人は皆それぞれよさがあって、同列だと思いますね。同じように1人1人魅力のある字だと思います。書として見た時には当時の活躍した人の字というのは伝わりますよね。

鈴木 特に僕はやはり明治の、第1世代の革命を起こした人たちの書からは、ものすごい熱量のエネルギーを感じますね。スケールが大きく強靭で闘争心が溢れんばかりのものがある。

名児耶 そうですね。やはり共通している同時代のものを感じますね。それがいいとか悪いとかいうのとは全く別問題で。その時代の書ということですね。

読み手を意識するのが福澤流

鈴木 西澤さんは小幡篤次郎を研究されていて、手紙もたくさんご覧になっていますよね。

西澤 小幡の書は非常に真面目というか。福澤はのびのびとしていますが、小幡のほうが頭で先に考えている感じがします。福澤は紙に向かって勢いで書くようなイメージですが、小幡の場合、この紙にどれだけ情報が入れられるかと考えて1文字1文字丁寧に書くような。

鈴木 設計図のように。

西澤 小幡の手紙は、私たちが普段もう使わない漢語をかなり使っています。福澤諭吉の手紙には、今の私たちが使っていない言葉は、ほとんど出てこないんですね。歴史を専門にやっている人でなくても、読んで意味がわかるだろうと思います。

小幡の漢詩は、金文京先生に読んでいただくと、中国の有名な詩をオマージュして作っている部分もあって、小幡自身による漢詩であっても、こちらに漢学の知識がないと本当の意味で理解できない漢詩が多いのではないかと思います。

そういったことが福澤にほとんどないことが魅力の1つであり、伝統的なことを重視する方からすると、「福澤の書は字ではない」と言いたくなることにつながるのではと思いました。

鈴木 そうですね。

西澤 でも、明治以降、後の世代になればなるほど、字は読みにくくなっていくんです。私などには益田孝や吉田茂になると、どういうセオリーで崩しているのかがわからない漢字も多い。自己流に崩すようになるようです。

それはたぶん、右筆(ゆうひつ)の書いた書を読むようなことがなくなったからだと思います。福澤の世代だとまだ右筆のものを読まなければいけないことが生活の中であった。その経験がなくなってくると、中国から来る様々な字体の見た目のよさに惹かれて書くようになっていくのかなと想像します。

例えば、大正・昭和期の福澤桃介宛の書簡は、非常に重要なものがたくさんあるのですが、いろいろな筆を読むのは本当に一苦労です。

鈴木 西澤さんは福澤の書簡集を編纂されていますが、全部で2500くらいですか。

西澤 その後もまた新しいのが見つかり、現在は2650通を超えました。

『学問のすゝめ』『文明論之概略』などの著作もそうですが、常に相手を意識するのが福澤流だと思うんですね。手紙をもらった人がそれを読めなければ意味がないので、それに合わせて書くし、揮毫するのであれば、もらう人がどのようにそれを使いたいかを考えてお書きになっているのでは、と思います。

例えば「慶應義塾の目的」は塾生たちに本当に見てもらいたいと福澤は思っているので、やはりその気持ちが出ている。堅苦しいような書き方だったり、身構えてしまうようなものを書いたのであれば意味がない、と思っているような気がします。常に読み手を意識しているのが福澤流なのかなと思っています。

名児耶 それは大事なことですよね。

「漢字かな交じり」の魅力

鈴木 福澤は「ケ」の部分では自分の家族や、個人的な思いを詠んだ漢詩もある一方、ハレの漢詩、仕事の上でのPRなどで作った漢詩、立場上の漢詩もずいぶんある。

七言絶句「帝室論稿成」の漢詩は、帝室論の本ができた、脱稿したことを詠んだ。中には創刊3カ月後の83号で発刊禁止処分を受け、「爺(じじ)(時事)さんは八十三で腰を折り」などと川柳でからかわれたこともあった。しかし、「一面真相一面空」とか、「戯去戯来」といった遊び心を持って執筆した書のほうがのびやかに楽しんでいる、と感じるのです。

名児耶 漢字かな交じりのものも何かいいですね。漢字が並んでいるだけのものより魅力的に思います。

鈴木 ハレという部分でやる仕事はいろいろあるけれど、ケの部分というのは本音や本心、自分の思いが自由にほとばしり出ている──ということですよね。

名児耶 あると思いますね。それが日本人の面白いところかなと思う。漢詩を書くとなるとやはり、ちょっと気持ちが変わるんですよね。漢字かな交じりは自由でいいですよね。

鈴木 漢字かな交じりというのは、考えてみたら日本では一千年前の源氏物語からやっています。

名児耶 そうです。奈良時代から日本は中国の影響を受けるわけですよね。しかし先ほど言ったように、刺激を受けても全部日本化してしまっている。そういう意味からも、こう見ると漢字かな交じりが非常に魅力的で面白いなと思いますね。

伝統文化を伝える「書」

鈴木 この「国光発於美術」は2009年に慶應義塾の創立150年記念展覧会で出したものです。これはすごくいいと思うんですけど、どうですか。

「国光発於美術」(複製)

名児耶 バランスもいいですし大小の具合もごく自然です。よく見ると結構字が大きいんですが、それがスーッと自然に大きくなっている。これは拝見した時、福澤諭吉の傑作と言っていいと思いましたね。

鈴木 ああ、よかった。これは現在、オリジナルの書幅が見つからないのです。行方不明です。何とかして慶應義塾に戻したいと思っているのです。

名児耶 国の光や輝きは美術の中で出てくるみたいな意味でしょうか。

鈴木 そういうことです。この場合の美術は文化芸術です。

名児耶 私も全くそう思います。その国の良さ、この民族の良さというのは、その国の持っている、長く続いていた伝統文化、環境によって作られるのであって、違う国の文化を無理やり押し付けるのはよくないと思っています。

明治維新と戦後の大きな影響が、いい面に働いているときはいいけど、全部上手くいっているとは感じないんです。特に最近何か、ちょっとおかしいんじゃないかなと。

文化の1つに、書があるんですよね。その国が国らしくあるのはその伝統文化において発せられる。まさにこの言葉ですよね。

鈴木 福澤が『時事新報』を創刊し、最初の連載社説『帝室論』で訴えた「帝室は政治の社外にあって学問教育の振興、芸術文化の保護をすべし」に通じる文化財保護、メセナ活動の基本的な考えがここに集約されていると思います。

西澤 明治28年にたくさん朝鮮から留学生を受け入れ、彼らが在学中に福澤が還暦になるのですが、その時、彼らは皆、両班(ヤンバン)の人たちばかりなので、素晴らしい漢詩に水墨画などを添えて還暦のお祝いに渡すんです。

しかし、日本の学生たちはそれをしなかったようです。明治維新後の30年ぐらいで、西洋文化が入ってきたことで文化が大きく変わってしまった一例だと思います。私は、それは福澤にとっては、悲しいことであったのではとも思いました。

それまで自分たちが培ってきた精神も持っていてほしい、それが「慶應義塾の目的」や『福翁自伝』の中に自分の若い頃をかなり誇張して書いて、若い人たちにメッセージとして伝えるということにつながっているのかなと思いました。

鈴木 山口一夫さんが福澤諭吉協会の『福澤手帖』の第1回に新渡戸稲造のことを書いていて、新渡戸稲造は一度だけ三田演説館で福澤の講演を聞いたことがあるそうです。

新渡戸の回想によれば、その時、福澤先生は両手に紙袋を下げて入ってきて、演説の前に紙袋から取り出した煎餅を聴衆の少年たちに与えられたそうです。新渡戸は次のように述べています。

今日、教育家は多いがたいてい1時間いくらの給金で講義の切り売りをするのが多い。子どもたち1人1人に煎餅を与えながら自然ににじむ愛情で周囲を潤していくような、血の通った教育をする人は少ない。生涯唯一の出会いであったがこのことをよく覚えていると。

私はこの話を知り、やはり福澤の書に表れているのは、この優しさ、教育者としての、人を大事にする姿勢なのではないかと思いました。今日は長い間、有り難うございました。

(2023年12月12日、三田キャンパス内で収録)

[福澤諭吉の書の主なものは、慶應義塾大学メディアセンターの「福澤遺墨コレクション」で見ることができます。]

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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