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【三人閑談】
福澤諭吉の「書」

2024/02/26

  • 名児耶 明(なごや あきら)

    一般財団法人筆の里振興事業団理事/筆の里工房副館長。
    1972年東京教育大学教育学部芸術学科書専攻卒業。公益財団法人五島美術館理事・副館長を経る。書道史、書文化研究の第一人者として知られる。

  • 鈴木 隆敏(すずき たかとし)

    一般社団法人福澤諭吉協会監事。
    1962年慶應義塾大学文学部卒業。同年産経新聞社入社。彫刻の森美術館館長などを歴任。元慶應義塾大学大学院文学研究科アートマネジメント分野講師。『福澤手帖』(福澤諭吉協会)にて福澤諭吉の書について連載執筆。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    慶應義塾福澤研究センター教授。
    1986年慶應義塾大学大学院文学研究科修了。中津の士族社会や福澤諭吉の家族観・女性観を主な研究対象としている。『福澤諭吉書簡集』(全9巻)編集委員。

「あれは字ではない」?

鈴木 福澤諭吉の書作は全部で200種類ぐらい残っている。何回も同じものを揮毫して人に渡したりするので、作品の点数にすれば1000点近いのかもしれません。

作品集はこれまで2つあり、1つが慶應義塾の図書館が、昭和7年に福澤先生の伝記の完成を記念して作った『傳記完成記念福澤先生遺墨集』です。その後、時事新報が昭和29年、産経新聞と合同する直前に、『福澤諭吉の遺風』という遺墨集を作りました。

その『遺風』の冒頭に3人の慶應義塾の塾長、塾長代理の人たちが序文を書いています。まず、高橋誠一郎はこんなことを書いています。

少年の頃、先生が揮毫する際、墨をするお手伝いをして、そのお礼に「独立自尊」とか「戯去戯来自有真」と書かれたものを頂戴して帰った。先生は若い頃は、書を書くのは、頭を殴られるよりも嫌だった、と言っていた。でも、老境に入ってからの揮毫は相当の楽しみであったようにも見えたと。そして、高橋誠一郎が普通部で習字を教えてもらった原田鼎洲という老書家に、ある学生が、「福澤先生の書はどうですか」と聞くと、「あれは字ではない」と答えた。しかし、私は、先生の書を見ているといつも、上手い、まずいを超越して何とも言えないいい心持ちになる。先生の遺墨は人格がおのずと文字の上に現れて高徳の気迫がそぞろに感じられる。好んで三十一谷人、すなわち「世俗」の落款印を押した先生の書には、俗を超えた超俗の姿がある──と。

名児耶 なるほど。

鈴木 小泉信三は、福澤先生を後世に伝えるものは、その文章、散文であって、詩歌や書は得意な技ではない。にもかかわらず、先生の墨蹟は人を表し、書家の批評はどうであろうとも、これは福澤諭吉以外の誰にも作られぬ独特のものだと思う、と言っています。

もう1人福澤の孫で塾長も務めた潮田江次は、祖父の書を上手いと思ったことがないと言う。祖母(福澤諭吉の妻錦)をはじめ一族誰の口からも、「おぢい様の字は上手い」などという言葉は聞いたことがない。それにもかかわらず小さい時分から福澤諭吉の書が好きだった。眺めていると何かおおらかな温かい楽しいものが流れてくる。福澤諭吉の人と一生をよく知るにしたがって、その書はいかにその人らしい形と力と勢いと姿を見せているようで、故人に接する思いがすると述べています。

名児耶 面白いですね。

鈴木 3人がこのように言ったことが、やはり多くの人に影響を与えたと思うんです。特に高橋誠一郎が言う、普通部の老書家の先生が「あれは字ではない」と言ったという一言が、その部分だけ一人歩きしてきた。

私も長い間“三田伝説”のように「福澤の書は上手くない」と聞いてきました。それが影響したのかどうかわかりませんが、歴代の塾長の講演や挨拶で「福澤先生の書」を語ったものはないと思います。

書き文字の魅力は個性にあり

西澤 今の、3人の感想をお聞きになって名児耶さんはいかがですか。

名児耶 その通りですよね。やはり書から感じられることはすごく大きく、上手い下手の問題ではないと思いますね。

おそらく老書家の方が「字ではない」と言ったのは、書の古典的な、例えば王羲之(おうぎし)の字の良さを基準にして見ると違う、ということではないかと思うんです。でも、3人が後半に言っていることは皆その通りだと思いますよ。

鈴木 3人3様ですが、同じ趣旨のことを言っていますね。

名児耶 そうですね。人というのは皆違って、それがやはり筆を通して書くという書に一番よく出てくるのかもしれない。コンピューターで打って文章を書くのとはわけが違う。そこが書の魅力です。

書き文字の良さという観点から考えると、福澤の字は、好き嫌いもあるでしょうけど、ざっと拝見して、その人の個性が上手く出ている書だと思います。1つ1つの字を見たらもしかしたら変なものもあるかもしれませんが、全体で見るとそれは全然感じないですよ。

たとえ字並びはおかしくても、その人が出ているもののほうが魅力的ですね。そういうところが書にはある。そこは大事だと思います。その人の個性があって、いいんですよ。

西澤 私は、『福澤諭吉書簡集』の編纂をさせていただいていたので、福澤の書簡はよく見ていたのですが、同時代の他の人物の字に比べて非常に読みやすくてわかりやすい印象があります。

なので単純に「私が読めるということは達筆ではないのかな」と思いました。芸術的な美しさのある字は書かない人だったという話かなと思っていました。

名児耶 誰の字だろうが、個性が出ていて字としてまとまっていたら、それはそれでいいと思いますよ。個性が発揮されているわけですから。変に王羲之を一生懸命真似ようとして個性が出ていない字のほうがしっくりこないと思いますね。

書写教育というのは昔はもっと自由だった気がするんです。どうも最近の教育は、活字に侵されているんじゃないかと思うんですね。書いていると少し縦の線が撥ねてしまうのは当たり前のことなのに、撥ねるとバツになる。しかし、書き文字というのはもっと自由なはずなんです。

そういうことしか頭にない人が、その基準で上手い下手を言ったりすると、福澤諭吉の字は下手だったということになるのかな、と思うんです。でも、下手というのと、その字がいいかどうかはまた別問題です。

鈴木 全然別次元ですね。

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