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【福澤諭吉をめぐる人々】
中村栗園

2024/01/17

中村栗園画像(部分、甲賀市教育委員会所蔵・提供)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

福澤諭吉の父百助(ひゃくすけ)が45歳(数え年)の若さで急死したのは、福澤の誕生から1年半後のことであった。突然のことに途方に暮れる百助の妻順(じゅん)と5人の幼子のもとに、訃報を聞いて近江国水口(みなくち)(いまの滋賀県甲賀市)から駆けつけた男がいた。中村栗園(りつえん)である。

諭吉を抱いて福澤家を見送る

中村は、水口ではなく、豊前国(いまの大分県)中津に生まれ育った。文化3(1806)年の生まれというから、百助より14歳年下である。父片山東籬(とうり)は染物屋で、その次子であったが、幼少から漢学を志し、豊後国日出(ひじ)藩の高名な儒学者帆足万里(ほあしばんり)に学んだ。町人の子である中村(当時は片山)に対し、多くの門人は冷たかったが、百助は身分に関係なく中村を認めて親しく付き合っていた。福澤が後に『福翁自伝』において、自分が身分の差によって他人を軽蔑しないのは決して自分ひとりで身に付けたものではなく、父母もそうであったと語る時に、父百助の実例として挙げているのが、この中村との親密な関係である。中村は、のち亀井昭陽(しょうよう)の門弟となるが、朱子学を志す中村は、古学を主張する亀井とは説が合わず、亀井のもとを離れて大坂に出る。この時、藩から大坂在番を命じられ蔵屋敷の長屋にいた百助は、大坂にやって来た中村を寄寓させ、兄弟のように親身になって面倒をみた。中村が、篠崎小竹(しょうちく)、斎藤拙堂(せつどう)、野田笛浦(てきほ)ら当時高名な儒学者と交わることができたのは、おそらく百助の紹介があったからであろう。中村は、代々水口藩の藩儒となっていた中村家の当主介石に子がなかったため、その養子として迎えられた。福澤関係の資料を見ると百助が中村を水口藩の儒者に推薦したことになっているが、中村の関連資料では推薦者は篠崎となっている。儒学者として名の知られた篠崎が中心となって事を進めたことは想像できるが、百助も、中津藩では出世の見込めない中村を水口藩へ移籍させるべく、陰に陽に支えたに違いない。

天保7(1836)年6月、水口の中村のもとに兄のように慕っていた百助の死が知らされ、中村は大坂の中津藩蔵屋敷に駆けつけた。中村は、そのひと月ほど前に百助を訪ね、花開き、柳の緑が美しい春の風景を眺めながら、酒を飲み交わし、詩を作りあったばかりであった。中村は、百助の死を悼み、「哭福澤氏詩以代祭文」(福澤氏を哭するの詩、以て祭文に代う)という五言の漢詩を贈った(詩文は石河幹明『福澤諭吉傳』に掲載)。

順にとって、中村の存在は、大きな支えになったに違いない。遺族が百助の遺骨を抱えて中津に帰る際、中村は末子の諭吉を抱いて、安治川口の船まで見送り、福澤家に別れを告げた。

ほんとうの親に会ったような心持ち

弘化3(1846)年、アメリカやフランスなど列強国の軍艦が来航すると、幕府は国交開始を拒んだものの、政情不安が諸藩にも広がり、全国で改革派の動きが活発になっていった。水口藩では、江戸で海防や西洋兵法を学んだ藩士細野亘(わたる)が、藩儒となった中村とともに藩主加藤明軌(あきのり)に軍備強化を進言する。この進言は家老岡田九郎右衛門ら保守派勢力によって却下されたものの、その後、藩主が細野の兵学講義を聴くなど、改革派と保守派の権力争いが拮抗し、政情は二転三転した。改革派が藩政の中核を占めるようになったのは、ペリー来航(1853年)からである。その2カ月後に登城し、海外情勢の説明と軍備の拡張を主張した細野、中村の意見書が受け入れられ、藩士の教練と軍事整備は2人に委ねられた。さらに細野の死後、改革派の指導的地位に立った中村は、安政2(1855)年、藩校翼輪堂(よくりんどう)を開校した。翼輪堂は、文武両道の教場として、水口藩の改革派の支柱となり、明治以降に活躍する人材を輩出していく。

中村は、「予の今日あるは少年の時より貧苦を忍びて研究せし賜なり」(『近江人物志』)と子弟を厳しく戒め、盛夏に扇子を使うことを許さず、厳冬に火炉に近づくことをさせなかった。講堂掲示には、先生や年長者を尊敬すべきこと、礼儀正しくすべきこと、討論のほかは世間話や無駄話をしてはならないこと、あくびは不敬であるから、してはならないことなどが記されていた。

安政5年、1人の若者が中村を訪ねてきた。福澤である。福澤は藩命で大坂の適塾での学問修業を終えて江戸に出るところであった。福澤は江戸に向かう前に、しばらくは中津に帰れないからと母順に別れを告げに里帰りしている。この時、順から中村栗園について話を聞き、挨拶に行くように言われたのかもしれない。水口は、庶民が行き交う東海道の京から4つめの宿場町と、藩の政治の中心地である城下町が隣り合わせとなった特異な町である。福澤が水口宿まで来て、水口城に近い中村の屋敷に立ち寄ると、中村は、福澤の来訪を非常に喜んだ。中村は、「おまえのご親父(しんぷ)が大坂でご不幸のときは、わたしはスグ大坂に行って、ソレカラおまえたちが船に乗って中津に帰るそのときには、わたしがおまえを抱いて安治川口の船まで行って別れた。そのときおまえは年弱の三つで、なにも知らなかろう」(『福翁自伝』、三つは数え年)などと昔話をして、今晩は家に泊まっていくようにと福澤を引き留めた。勧められるがままに一晩泊まった福澤が、「実にほんとうの親に会ったような心持」(同)がしたという一文に、福澤の知らない在りし日の百助の様子を語る中村の姿が想像できる。

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