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【福澤諭吉をめぐる人々】
中村栗園

2024/01/17

中村栗園先生の門前を素通り

中村自身は、翼輪堂の教授として藩士を指導こそすれ、自ら剣を握ることはなかった。しかし、尊王攘夷を主張する青年藩士の中には、血気盛んな者が多く、水口藩の中にも、武力行使に出る者がいた。文久4(1864)年2月には、家老の岡田直次郎が宴席の帰り道、改革派の凶刃に倒れた。この暗殺事件以降、水口藩は中村を中心とする改革派が政権を握り、藩論は尊王攘夷にまとまった。京に近い水口藩は、御所の下立売御門(しもだちうりごもん)などの警護に当たるとともに、天誅組が大和に挙兵し、幕府からその鎮圧の命令が下されても、消極的な態度を示した。また、のちに水口藩に長州再征の命が下った時には、中村の主導で従軍を拒否し、藩主の病気を口実に京都警護の任に就くことに成功した。中村は、年老いてからは水口を出ることはなかったが、養子の確堂や翼輪堂に学んだ藩士が頻繁に往来していたので、藩内外の情報を的確につかんでいた。こうして中村は、幕末の困難な時期に、青年藩士の血気蛮勇を抑えて、藩政を舵取りした。

元治元(1864)年、福澤は6年ぶりに中津に里帰りした。この時、福澤はすでに2度の海外渡航を済ませ、攘夷派から命を狙われる存在になっていた。帰路、福澤一行が水口宿に差し掛かると、中村の屋敷は目と鼻の先であり、「今度もぜひとも訪問しなければならぬ」(『福翁自伝』)というのが福澤の心情であった。しかし、人の噂を聞けば、中村は攘夷家であるという。もちろん、「栗園先生は頼んでもわたしを害する人ではないが」(同)、中村の大勢の門下生が何をするかは、分からない。「立ち寄ればとても助からぬと思って、不本意ながらその門前を素通りし」(同)たのであった。このあと、福澤は中村と会う機会に恵まれず、福澤にとって、中村の門前を素通りしたことは、生涯心残りの出来事となった。

明治2(1869)年、版籍奉還に伴って水口藩主が藩知事になると、中村は大参事(いまの副知事相当)に任命され、明治初期の藩政に当たり、翌年辞職した。翼輪堂は、尚志館と改称して学制頒布まで存続し、その蔵書には儒教を教える四書五経のみならず、福澤の『西洋事情』も含まれていた。中村は、職を失った翼輪堂出身の士族の多くを小学校の教員に推薦し、彼らの生活を救ったという。

明治11年8月と同13年7月、明治天皇が水口を通過する際、中村はその功により、召されて拝謁を賜ったが、同14年、病気のために没し、真に故郷となった水口に葬られた。

祖先以来正潔の家風

福澤と中村が会ったのは、福澤の記憶にある範囲では、わずかに一晩きりであった。しかし、中村が没する前に福澤に宛てた手紙(明治11年1月4日付)は、福澤のその後に大きな影響を与えるものであった。

中村の書簡は漢文で書かれ、その趣旨は、小学校が技ばかりを教えている実状を憂え、福澤の手を借りて、孝悌の道を先にし、技芸はそれに継いで教えるように改めたい、というものであった。文中、福澤が特に衝撃を受けたのは、「君若以孝悌之道、為狭隘不足行乎、與尊嚴在世時、講経説孝之意、甚相背馳」(君がもし孝悌の道は狭いもので必要がないとするなら、君の父が講じ、説いてきた志に背くものである)という一節であろう。

福澤は、急ぎ返書を認め、そこでは母順が亡くなったことを含め、一家の様子を中村に伝え、自らも父百助が亡くなった45歳(数え年)になったと書いた。続く1月25日付の返書で、福澤は、江戸時代から今日までの教育を論じたうえで、自分も孝悌が軽んじられていることを憂慮しているが、天下の大勢はどうにもならず、時に従うしかないと書いた。さらに、自分は生まれて18カ月で父を喪ったが、父の言行は母から詳しく聞いており、父を深く敬っていること、そして「先人の言行果たして儒ならば、生(筆者注:自分)は即ち儒の道を信じて疑はざる者なり」として「祖先以来正潔の家風を存し、以て先考先妣(せんこうせんぴ)(筆者注:亡き父母)を辱しむるなからんこと、生が終身の心事なり」と結んだ。福澤は、この返書「中村栗園先生に答」を「中村栗園先生の書翰」とともに2月3日と6日付「民間雑誌」に掲載し、世の中に公表した。中村からは、その後、立て続けに3通の手紙が福澤に届いているが、その文面は、親族に宛てたもののように柔らかくなった。中村は、福澤から贈られた鮭が絶品であったと感謝を述べるとともに、手紙を通して父百助の人となりを福澤に伝えた。

中村の手紙は、福澤に亡き父の教えを思い起こさせるに十分なものであった。福澤は、2月5日付で、「福澤氏古銭配分之記」と題する書き付けを書き、我が子(当時は6人)に百助の律儀正直親切な人柄を伝える逸話(めぐる人々1「福澤百助」参照)を語り、祖父に恥じない生き方をするようにと、百助の遺品の古銭を子どもたちに分け与えたのだった。

栗園中邨先生壽蔵碑(写真左、甲賀市大岡寺)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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