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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤百助

2016/04/01

  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭、福澤研究センター所員

福澤諭吉と父百助(ひゃくすけ)との直接の接点は、わずかに1年半。それも諭吉が乳飲み子の時であり、諭吉の中に父の記憶はない。それでも、諭吉の生涯を通して、最も影響を与えた人物の1人に百助を数えないわけにはいかない。

漢学者福澤百助

『福翁自伝』において、諭吉は百助のことを「私の父は学者であった。あたりまえの漢学者で」あると紹介している。近江国(いまの滋賀県)水口藩の藩儒(藩主に使える儒学者)中村栗園(りつえん)が後年、諭吉にあてた手紙には、百助が中津藩の藩儒野本雪巌(せつがん)に学び、さらに豊後国(いまの大分県) 日出(ひじ)藩の高名な儒学者帆足万里(ほあしばんり)の門人となったこと、栗園にとっては同門の先輩に当たることが記されている。

百助は、学問を通じて栗園と深い親交を結び、14歳年少の栗園を実弟のように思って面倒を見ていた。中津の染物屋の息子であった栗園が水口藩の藩儒となれたのも百助の口利きが助けになったと言う。しかし、百助自身は、あくまでも中津藩の下級武士であり、藩から大坂在番を命じられ、その蔵屋敷で回米方(かいまいかた)として勤務していた。

回米方は、大坂の豪商に借金の交渉をする仕事に当たる。金銭の誘惑も多いため、短い任期で交代させるのが一般的であるが、百助はその正直で誠実な人柄からか、評判が高く、重任を繰り返した。当時の学者には、銭を見るのも汚らわしいという風潮があったから、百助にとってこの仕事は決して満足できるものではなかった。百助は任期を迎えるたびに「永詰難渋に付交代被仰附度(おおせつけられたく)」と交代を願い出る書面を提出したが、ついに大坂でその生涯を閉じるまで14年もの間、故郷中津で暮らすことはできなかった。

福澤家の禄高は、十三石二人扶持といい、5人の子どもを育てる家庭にとっては苦しい家計であったに違いないが、読書好きの百助は熱心に書物を購入し、その蔵書は1,500冊にも及んだ。中には、容易には手に入らない高価な本もあった。その中の1つに64冊からなる『上諭條例』という漢文の書籍がある。

百助は、長い間、欲しがっていたこの『上諭條例』を漸く手に入れることができ、大いに喜んだ。そして、まさにその日、天保5年12月12日(西暦では1835年1月10日)に誕生した第5子に、その書名の一字をとって諭吉と名付けたのである。百助の読書好きは、米や塩までも節約して書籍購入に充てたくらいだから、妻の順にとってみれば、困ったものだったかもしれない。しかし、この大量の蔵書は後年になって福澤家と諭吉を助けることに なる。安政3(1856)年、諭吉が中津から再度大坂に出立するとき、福澤家には多くの借金があり、これを整理しなければならなかった。その時、百助の蔵書を豊後国臼杵(うすき)藩に一括して買い取ってもらうことで借金返済に充てることができたのである。

父の遺風

諭吉が生まれてわずか1年半、天保7年6月に百助は、急死した。残された順と5人の子どもは、そのまま大坂で暮らすわけにもいかず、中津へと帰ることになった。百助の死を聞いた中村栗園は、水口から駆けつけ、赤ん坊の諭吉を抱いて、中津へ帰る一家を安治川(あじかわ)口まで見送った。

中津に帰った順は、女手一つで諭吉たち5人の子どもを育て上げた。順は、百助が大切にした家風を守り、「明けても暮れても、唯母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです」(『福翁自伝』)と諭吉が言うように、何かにつけては子どもたちに百助のことを話して聞かせた。

諭吉は続けて、「厳重な父があるでもないが、母子むつまじく暮らして、兄弟げんかなどただの一度もしたことがないのみか、かりそめにも俗な卑陋(びろう)なことはしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決してやかましいむずかしい人でないのに、自然にそうなったのは、やはり父の遺風と母の感化力でしょう」と、中津での家庭の様子を書いている。

では、百助の遺した家風とはどのようなものであったのか。順が諭吉たちに話して聞かせた百助の逸話にその一端を見ることができる。

百助は、大坂在任中、古い銭を集めることを趣味としていた。一文銭は、現在の5円玉のように真ん中に穴が空いた形をしており、まとまった金額のやりとりには、これに縄を通した「銭さし」を使っていた。百文の銭さしは実際には96枚の一文銭でも百文扱いにし、受け渡しの時も、いちいち勘定しないという習慣があった。ある日、百助は、銭さしの束から珍しい銭を見つけて何枚か取り出して別におき、そのまま外出した。ところが百助が出かけている間に、そうとは知らぬ家の人が、魚売りの行商に、その銭さしを代金として渡してしまった。家に帰って、このことを知った百助は、わずかなお金だからいいだろうとか、今更、行商を探すのは困難だとあきらめずに、その魚屋がどんな人物であったかを聞いて、町を探し回り、2,3日で、とうとう魚屋を見つけ出した。百助は、魚屋に自分の不注意を謝り、不足の代金を返したという。

諭吉は、百助の律儀正直親切な人柄を伝えるこの話を自分の子どもたちにも語り、祖父に恥じない生き方をするようにと諭すべく、「福澤氏古銭配分之記」と題する書き付けを書き、百助遺品の古銭を子どもたちに分け与えた。

百助の親友中村栗園から諭吉に冒頭の手紙が届いたのは、書き付けを書いたわずか十数日前のことであった。そこには、諭吉は儒教、儒家嫌いと聞くが、もしも諭吉が孝悌(儒教の徳目の1つで父母に孝行し目上の人によく従うこと)の道を大切にしないなら、それは父の志に背くものだという意味の文面が書かれていた。諭吉は、父の言行については母から細かに聞いて、深くこれを心に刻みつけて忘れないと栗園に返事を送った。栗園の手紙が、諭吉に父の教えを思い起こさせ、それを子に伝えなければならないという行動に至らせたことが想像できる。

福澤百助遺品『上諭條例』(慶應義塾図書館蔵)
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