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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤百助

2016/04/01

門閥制度は親の敵

百助は、諭吉が10か11になれば寺にやって坊主にすると、毎度、順に語っていた。順は、百助が生きていたならお前は寺のお坊様になっているはずだと、何かの話の端には、諭吉に伝えていた。百助の生きた時代は、厳しい身分制度のもと、武士の子は武士に、農民の子は農民に、商人の子は商人にというように、生まれた家で生涯の身分や地位が決まる時代であった。いわゆる門閥制度と呼ばれる社会の仕組みである。

武士の間にも身分の差があり、百助の生まれた福澤家は武士の家柄ではあっても下級武士であり、いくら職務に精を出しても出世は望めなかった。故郷を離れ、望まぬ仕事に向かい、成果が報われることなく一生を終えた百助の無念を思い、またせめて諭吉だけは門閥制度から離れて自分の力で名を成すことのできる坊主にしようと考えた百助の愛情の深さを思って、諭吉は1人泣くことがあったという。そして、百助をそこまで苦しめた身分制度を憎み、「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」という有名な言葉を諭吉に言わしめたのであった。

諭吉が、門閥制度と徹底的に戦った背景には、一身の独立を阻むもの、ひいては一国の独立のための障害となっている旧来の制度を取り除かなくてはならないという決意があった。決して「親の敵」という私的な恨みごとだけが支えになっていた訳ではないだろうが、一方で、門閥制度に何ら疑問を感じずに、かえって居心地の良い地位にあって幼少期を過ごしたならば、諭吉の思想は変わったものになっていたと言って間違いないだろう。

父の影像

元塾長小泉信三の父信吉(のぶきち)は、諭吉の愛した弟子の1人であったが、45歳の若さで一生を終えた。諭吉は、早速弔文を贈り、そこには信吉のことを

「心事剛毅にして寡欲(かよく)、品行方正にして能(よ)く物を容れ、言行温和にして自ら他を敬畏(けいい)せしむる」と評している。小泉家では、毎年、信吉の命日に、この弔文を床の間に掛けるようになった。父を亡くした時、まだ6歳であった信三にとってその弔文は、父の姿を追いかける手掛かりになったかもしれない。

諭吉は、小泉家に残された妻と4人の幼子を気遣い、しばらくの間、三田山上の福澤邸内の一棟に、この家族を住まわせた。こうして信三は、明治の巨人福澤諭吉を少年の目で間近に見つめる機会を得た。そして信三は、その最晩年に『福沢諭吉』を著した。

その著書で、諭吉の生涯を生まれてから死ぬまで振り返ったその後に、信三は、「父の影像」という一章を設けた。そこでは、謹厳実直な道徳の実践者であり律儀正直親切な人であった諭吉のその性格は、父百助の感化が大きかったことが指摘されている。信三は、百助の早世が「福沢をしてその父を理想化せられた映像として終生心に抱き、之をその心の支えとするに至らしめたと察する」と記している。信三が諭吉と同じ境遇にあったからこそ推察できることであろう。

そして、諭吉も、信三も理想化された父の影像を道徳的な支柱としつつ、いざ独自の道を歩むに当たり、「たいへんやかましい人物であった」(『福翁自伝』)父の抑圧や親子の葛藤に悩まされることなく、自由であった点も書き加えておきたい。

福澤百助「責善朋友之道也」書幅(福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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