三田評論ONLINE

【三人閑談】
『源氏物語』の世界

2024/01/12

源氏は顔出しNG?

西村 『源氏物語』が大河ドラマにならなかったのは、やはり触れてはいけない世界だったからだと思うんですね。今回の大河も主人公は紫式部なわけでしょう。「考えたな」と思いました。

 よく「ドラマにしたら、源氏は誰がやるといいと思いますか」と聞かれるんですが、私は「誰がやっても駄目です」と。

毬矢 ああ、確かに(笑)。

 もし僕に「映画化しろ」という話が来たら、「源氏は最後まで顔を出しません。後ろ姿ぐらいは見せるかもしれないけど」と言いますね。

毬矢 ウェイリーは光源氏を「Shining one」「Shining prince」と訳していて、「ああ、光源氏って光ってたんだ」と初めて思ったんです。それまで普通名詞のように感じていたんですが、「光っている人」と思ったら、神に近い存在のように思えてきて。神話のゼウスとか。

 そうそう。

毬矢 だからおっしゃったように、顔を見せないほうがよいと思います。

西村 生身の男性では演じきれない。むしろ宝塚の男役のほうが案外、許せるかもしれない。

 でも天海祐希が光源氏をやったのをチラッと見ましたが、あまり感心しなかったな。歴代、長谷川一夫や、伊丹十三もやったんですけど、もう薄気味悪い以外の何者でもなかった(笑)。

共感できる女性たちの悩み

西村 『源氏物語』は、特に最初のほうは、光源氏は狂言回しであって、実はいろいろな女性たちの魅力が書かれている小説なんですね。たぶん道長が紫式部に若い時の失敗談を語ったんじゃないですか(笑)。

 女房という立場の人たちは、先任の女房たちからいろいろな噂を聞いたり、自分が現実に見聞きするいじめの世界だとか、きっと切実な体験もあったと思うんですね。

「光源氏」は光っている天皇の息子の貴族という意味です。ただ「光っている」という意味は漠然としている。それと関わりを持った女たちの心は、非常に巧みに奥深く書かれているけど、少なくとも第1部では、源氏の心はそんなに深く追求されてはいない。

だから時によって、人によって源氏の態度が違って、ある人に対してはばかに素っ気なかったりする。ただ後半の「若菜」以降になると、源氏が俄然いやらしいおとこ・・・として存在感を増してきますね。

西村 女性から読むと、女性たちのいろいろな悩みだとか価値観に、今の私たちでも共感するところがあるんですよね。

朝顔の君の、大勢の中の1人にはなりたくないという、精神的な愛を貫く態度とか。それから空蝉(うつせみ)のように、逃げおおせたらずっと思ってくれるとか。夕顔は特別ですけれど、でも虜にしておいて、そのまま死んでしまって、その後玉鬘のところに流れが行くわけじゃないですか。

そのように現代の私たちが読んでも、女心をとてもよく描けていると思うところが、読み継がれる理由だと思うんです。

佐藤信彦先生が「『源氏』は若菜から読みなさい」とおっしゃったことがありました。そのへんから源氏の男としての苦悩や成長が描かれているじゃないですか。

 そうおっしゃるのは無理もないけど、ただ若菜から読んだんじゃ、きっと訳(わけ)わからないですね。

毬矢 そう、わからないでしょうね。

 実際、「藤裏葉(ふじのうらば)」までのところは短編物語の集合なんです。でも若菜からは、1つの大きな山あり谷ありの物語になっていく。

そういう意味ではドラマツルギーとして、やはり非常に格が高いというか。あの母が恋しいナイーブな少年だった源氏が、須磨から帰ってきて以後は返り咲いて准太上天皇まで成り上がる。それであの柏木に対する、いけず・・・なるやりようといったら、男から読んでも「ひでえな」と(笑)。

「女三宮」論

西村 男性からご覧になって光源氏は魅力的な男性ですか。

 いや、わからないですね。どう魅力的なのかは。ああなりたいものだとは思うけど(笑)。

西村 あ、そうですか。

 源氏の魅力とはある意味、女たちに投影されたものだから。誰も源氏にはなかなかなれないと思うわけ。例えば朧月夜なんかでも、いきなりズバッと部屋の中に連れ込んで、「どんなに騒いでも無駄ですよ。私は何をしてもいいってことになってるんですから」って。そんなこと今言ったらお縄ですよ(笑)。

毬矢 思い上がってますよね(笑)。

 でもそういうことを言う源氏って、ちょっと「しようがないな、こいつは」と思わせる。

でも後半の懊悩する源氏になると、どんなに人間は権力や何かを持ったとしても、人間としての苦悩はそれゆえに深まっていく。

紫の上という素晴らしい女性がいながら、女三宮を迎えなければいけないというのは、紫の上の苦悩だけど、源氏だってすごく苦悩しているわけですね。でも朱雀院の言うことは聞かなきゃいけなくて、最初の3日間はどうしても通わなければならず、源氏はおろおろしながら通っていたに違いない。

西村 いえいえ、私はあそこにも藤壺に対する永遠の恋人の面影を確かめたかったという、下心があったと思うんですよ。それが裏切られたんですけれど。そう思われません?

 女三宮に関しては、あんまりそれは感じないんです。女三宮というのは、どちらかというと非常に否定的に物語では書かれている。

例の蹴鞠の垣間見の場面にしてからが、発情期の雄猫に追いかけられて、猫が簾(すだれ)を引っ張ってしまう。するとそこに女三宮が見えたわけだけど、それは廂(ひさし)の間で見ていたということですよね。それは紫の上だったら絶対あり得ない。

西村 そうですね。そこは佐藤先生もおっしゃっていましたね。深窓のお姫様というのは、絶対に簾がまくれ上がったぐらいで見えるようなところに立っていないって。

光源氏の心の奥底には、もう1つ、男の魅力が、まだ自分にもあるかどうかを確かめたかったんじゃないかと。

 それはありますね。でも、紫の上が藤壺の身代わりだということはよくわかるし、だいたい藤壺自体が、桐壺の更衣の身代わりです。すると母恋いに行き着いてしまうわけです。そういう意味で言うと女三宮は、源氏はむしろ息子のお嫁さんにしてくれるといいのにと思っていたわけです。

西村 しかし、身分からして正妻として迎えなければいけなかったというのが、紫の上の苦悩の始まりですね。

 それは非常な苦悩で、もう大丈夫だろうと思っているところへ、横紙破りのようにして女三宮がやってくる。これはものすごいショック。

西村 天から降ってきたような災難だったと。

 でも女三宮は源氏には愛されないで、柏木の愛を受け入れて不義の子を産んでしまった。これは確かに藤壺が不義の子を産んだことの因果応報なんだけれども。

確かに見ないうちは、ちょっとは期待があったかもしれない。でも実際にお輿入れしてきてからの女三宮の態度を見て、期待した分だけ非常に失望した。そして失望した3日目の暁に、紫の上の夢を見て慌てて帰っていくわけです。ああいうところも非常に巧みな描き方ですね。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事