三田評論ONLINE

【三人閑談】
『源氏物語』の世界

2024/01/12

名文である理由

西村 私は訳本を通して読んだのは林さんの『謹訳源氏物語』が初めてでした。やはり原文の言葉は重いな、という思いはあるんですね。

「さかしさまに行かぬ年月よ」とか。そういう言葉は現代文に訳しても迫力がなくなると思うんですよ。そういう名文のところは原典に触れてほしいなと、つくづく思います。

 『源氏物語』を本当は原文で読まなければいけない理由は、例えば形容詞なんかの使い方が極めて細緻にできていて、ちょっとした違いが大きな違いになっているわけです。

例えば「胡蝶」で、源氏がそろそろ玉鬘(たまかずら)のことも、紫の上に言っておかないとまずいかなと思い、聞かれもしないのに白状するところがあるじゃないですか。

それで紫の上は「またか」と思いながら、何か皮肉のようなことを言って、「とほほ笑みたまふ」と書かれている。この「ほほ笑みたまふ」は、紫の上をよく表しています。責めもしない、泣きもしない。ちょっと「あてこする」ようなことを言って、にっこりと笑う。

玉鬘は、紫の上にとって自分の立場を脅かすような人じゃないから、にっこり笑うんです。だけど女三宮となると、そうはいかない(笑)。

西村 そうですよね。

 女三宮のことを源氏が言った時、紫の上はどうしたか。「とて、少しほほ笑みたまふ」と書いてある。

毬矢 あ、すごいですね。

 同じ「ほほ笑みたまふ」でも「少し」が付く。この「ほほ笑む」はにこにこするのではなく、うっすらと冷たく笑うことで、反感のようなものを表しているわけです。女三宮のこととなると、のっぴきならないので、その笑いが「少し」になるんですよ。僕はここは「ひんやりと微笑んだ」と訳したんですけど。

西村 そのへんのニュアンスですね。

毬矢 ウェイリーは、「あはれ」という言葉は決まった言葉で訳さないんです。「あはれ」はsympathy だったり、melancholy だったり、sorrow だったり、間投詞の「Oh Dear!」だったり、全部違う。

他にもbeautiful とか、facinationとか、いろいろな単語で訳していて、繊細にニュアンスを使い分けているんです。

 ウェイリーのその態度は、すごく納得できますね。「あはれ」も前後の状況によって全然意味が違ってくるわけですから。

一番難しいのは「なまめかし」という言葉。これは辞書には「優雅である」とか書かれているけど、もともと「なまめかし」の「なま」は「生」だから、生の美しさ、つまり飾り気のない美しさなんですね。例えば葵の上でも紫の上でも死の床に就いている時、「なまめかし」という形容で書かれているんです。

つまり元気な時はきらびやかに着飾ってお化粧もしているけど、死の床に就いている時は、全ての虚飾を取り払ってそこに生身の人間がいる。それこそが美しい。これが紫の上に対する最大限の賛辞なんです。

とはいえ「なまめかし」は生の美しさだから、官能的な場合もあるんです。だから原文と訳語は一対一では絶対に対応しない。文脈の中で訳していかないと。

毬矢 ウェイリーはその点は細やかに気を遣っています。精密に、深く読み取っていて、それには感嘆しました。

西村 『源氏』の原典講読の時、佐藤信彦教授がよく「チャーミング」という言葉を使われた。私は、その時は異様に感じたんですよ。「そんな外来語に訳していいのかな」と。

でも、「いや、チャーミングっていうことは、こっちの心が引きつけられるような魅力なんだよ」とおっしゃって。それで後になってから納得したことがあります。

ウェイリー訳が喚起させるもの

 ウェイリーの英訳をちょっと見てきましたが、訳は正確だな、と思いました。原文の意図を、どうやったら英語で表現できるかに、すごく意を用いている気がしました。

毬矢 そうなんです。よく意訳だとおっしゃる方がいますが、かなり正確です。

 非常に正確で、それゆえに原文よりも細かく、長く書いているところがありますね。

毬矢 そうです。そして和歌は本文に織り込むような形で、オペラのアリアみたいなんですよね。相聞のように、オペラのアリアのように、2人がこうこう、詩で言いました。詩でこう答えました、と訳していて、当時の読者は立ち止まらないで読めたのかなと思います。

 謹訳英訳ですね(笑)。とても大切なことだと思う。実はウェイリーの英訳って、世界最初の英訳じゃないですよね。

それより早く末松謙澄(すえまつけんちょう)が英訳したものがありますが、これは全訳じゃなくて、「絵合(えあわせ)」までしかない。比べてみたんですが、ウェイリーのほうが正確かと思いました。ただ謙澄の訳の方が日本人にはわかりやすい。

毬矢 でも謙澄も、思っていたより立派な訳ですよね。

 ええ、すごく。これをイギリスで出版したところがすごい。

西村 ウェイリーは萩のことをライラックと言っているみたいですが、萩はイギリスにはないんですか。

毬矢 もちろん「萩」の訳語はあるのですが、ウェイリーの訳は、イギリス文学に重ねているんですね。例えばシェイクスピアだったり、イギリスのロマン派の詩だったり、『旧約聖書』だったり。すごく重層的に訳している。

ライラックというと、イギリス人の中に詩的なイメージが湧くわけです。だから日本語に戻す時も、萩ではなく「ライラック」とそのまま訳すことが、逆に面白いのではないかと。当時のイギリスの読者の気持ちになってほしいという思いでした。

そしてmoor(荒野)は、当時の読者は『嵐が丘』の情景が浮かんだと思うんですね。私たちもそれを生かしたいと思いました。

西村 毬矢さんたちの訳されたものを拝見して、当時のイギリス人は、非常にエキゾチックなエンペラーを中心とした世界の物語として、あれを読んだのかなと思いました。

毬矢 彼の文章はモダニズム文学の流れを汲んでいます。プルーストなどの(stream of consciousness「意識の流れ」)の文体ですね。

西村 ウェイリーが使っている言葉や文章は、いわゆるその時代の現代文なんですか。

毬矢 ええ。林さんの『謹訳源氏物語』のように当時の読者は現代文として読めたと思います。

微妙な言葉の使い分け

西村 『源氏物語』は主語がなくても敬語で誰なのかがわかるように書かれている。でも、林さんの『謹訳源氏』の画期的なところは、敬語を現代小説を読むように原則として排除なさったところです。

毬矢 ウェイリーの英語もとても上品です。会話は、wouldやmay haveなどを使い、丁寧に階級意識を反映している。Sir やYour Majesty という言葉もよく出てきます。

 米語では失われているけれど、謙譲の意識みたいなものがイギリス人にはあるんですよね。

だから、ウェイリーの英語は、当時のイギリスの庶民が読んでも、ろくにわからなかったと思います。やっぱりオックスブリッジを出ている程度の人じゃないと。

毬矢 おっしゃる通りですね。

 そういう意味で言うと平安時代の貴族、天皇家から摂関家とか、それから中級貴族、下級貴族や地方豪族も、いろいろな階級によって、皆、使う言葉も違ったわけです。

『源氏物語』は、微妙な言葉の使い分けによって、「こんなやつは下品」とわかるようになっている。だから私もあえて下品な言葉で訳しているところもあるんです。

毬矢 紫式部って、そこがまた素晴らしいですね。下層の人々の言葉もちゃんと書けている。

西村 「夕顔」のところなんかね(笑)。

 そうそう。見てきたように書いてある。

西洋の文学だと、例えばギリシャ古典や聖書など、いわゆるクラシックスの中に使われている言葉や何かを、巧みに織り込むというレトリックがありますね。ウェイリー訳にはそういうことが非常に使われているんじゃないか。それは『源氏物語』が和歌や漢詩文を巧みに織り込んでいるのと、パラレルなものがあると思っています。

毬矢 おっしゃる通りです。紫式部は「長恨歌(ちょうごんか)」など多く引用していますよね。ウェイリーも白居易が好きで評伝も書いているので、それも織り込まれ格調が高いです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事