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【三人閑談】
『源氏物語』の世界

2024/01/12

  • 西村 和子(にしむら かずこ)

    俳人。
    1970年慶應義塾大学文学部国文学専攻卒業。塾在学中から清崎敏郎に師事。96年行方克巳と「知音」創刊、代表。俳人協会副会長。句集に「心音」等。著書に『季語で読む源氏物語』がある。

  • 林 望(はやし のぞむ)

    作家、書誌学者。
    1972年慶應義塾大学文学部国文学専攻卒業。77年同大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は日本書誌学、国文学。『謹訳 源氏物語 一~十』(2010~2013)で毎日出版文化賞特別賞。

  • 毬矢 まりえ(まりや まりえ)

    俳人・評論家。
    1987年慶應義塾大学文学部仏文学専攻卒業。同大学院文学研究科前期博士課程中退。俳人協会会員。国際俳句交流協会実行委員。『A・ウェイリー版源氏物語 1~4』(2017~19)の現代日本語訳でドナルド・キーン特別賞。

『源氏』は読まれない?

 何しろNHKが、紫式部を大河ドラマにするという事態が突発しまして、世の中を挙げて「源氏、源氏」になってきました。

でも、僕が常に反発を感じるのは、「『源氏物語』は日本文学史最大のベストセラー」というような言い方。それは違います。

西村 読み通した人、少ないですものね(笑)。

 「どの時代でも、源氏をちゃんと読んだ人の数は限りなくゼロに近い」と言っているんです。すると、皆が驚くんですけど、実際そうなんですね。

『源氏物語』が貴族などではなく普通の人たちの読書の中に入ってきたのは江戸時代です。それも江戸の註釈無しの古活字版なんかでは読めないので、結局、北村季吟(きぎん)の『湖月抄』が出るまでは、『源氏物語』は誰にとっても名前だけは知っていて、読んだことがないという作品だった。

同じ平安朝の文学でも『伊勢物語』などの短いものとは全然違う。とにかく膨大な量で、しかも非常に複雑に入り組んでいて、その上、部分、部分は極めて精緻に書かれている。

これは世界文学史の中の、もう奇跡と言うべきもので、少なくとも世界中探しても同時代に比類するものが全くなかったんですね。

毬矢 おっしゃる通り、『源氏物語』は「世界文学」として広く知られていると思います。私が最初に読んだのは、母の本棚にあった『谷崎源氏』で、ついでアメリカ留学後に『円地源氏』を読んだんです。それが素晴らしくて。そして大学院の時にアーサー・ウェイリーのThe Tale of Genji(1925~33)に出会ったんです。

感動しました。けれど、まさか自分がそれを訳すなんて思ってもいませんでした。何十年たってから思い立って妹(森山恵氏)とともに英語から現代日本語への「戻し訳」に挑んだんです。

英語を通して、もう一度『源氏』に出会い直した感じです。ご存知のようにウェイリー訳は正宗白鳥も高く評価しています。

西村 私は『源氏』に俳句を通じて再会したという感じですね。塾の国文の原典講読で、必ず『源氏』を読みますが、その時は『更級日記』とかのほうが好きだったんですよ。

それで俳句をずっと作り続けてきたのですが、しばらくして原文ではなく訳文を読み返した時、「どこの帖にも必ず季語が出てくる」ことを発見したんです。それで興味を持って、全部読み返しました。

林さんがおっしゃったように、全部読んでいる人ってすごく少ない。日本人で、『源氏物語』の原文に一度も触れたことがない人と、原文で全部読んだ人の数は同じぐらい少ないそうです。それはとても憂うべき状況なので、どんな形ででも『源氏物語』に触れていただきたいなと切に思いますね。

『ウェイリー源氏』を訳す

 僕は原典しか読んだことがないんですよ。現代語訳されたものは、もちろん名前は知っていてチラチラ見た程度ですが、例えば『与謝野源氏』だったら和歌が出てくるけど、和歌の解釈がない。

『源氏』の和歌って、掛詞・縁語などの修辞が複雑で理屈っぽいじゃないですか。だから解釈がないと一般の読者は放り出されてしまいますよね。

登場人物の気持ちを表すとか、何かを伝えるメディアとして使われていて、しかもそれは露骨に言わない。そういう意味でとてもわかりにくい和歌を、全然訳さないのはちょっと不親切だなと思いました。

と言って現代語訳だけだと、絶対、元はどういう歌なんだろうと思う。それはやはり難しいところだなと。毬矢さんの訳は、ちゃんと元歌が出ていますね。そしてウェイリーの訳が出てくるんですが、ウェイリーの訳だけ読むと、「何だかな」という感じがちょっとしますね。

西村 そうね、ちょっと不安ね。萩がライラックになってたり(笑)。

 ウェイリーの訳は全然日本のことを知らないイギリス人が読むと、例えば宮廷(court)はバッキンガム宮殿のようなものを想像させるのではないか。これはわざと西洋の景物(けいぶつ)らしく訳してあるんですよね?

毬矢 はい、工夫して訳している。

西村 そういう意味では新鮮でした。だけど、ウェイリーは、「king」ではなくて「emperor」を使っているんですか? emperorというと、私は中国の皇帝みたいな感じがしてしまう。「帝(みかど)」というのはkingじゃないのかなと、少し引っかかりましたね。

毬矢 ウェイリーはそこもよく考えて「帝」を「emperor」と訳したと思います。戻し訳も「エンペラー」にしました。

 「ミカド」でよかったのではないかと思う。エンペラーって大体独裁的だったり、わがままだったり。でも、日本の帝は、統治しないですから。

西村 生まれ育ちが違うのが帝ですね。訳は悩まれたんだろうなと。「靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)」なんかも、「~の娘」って訳されているけれど、それはウェイリーがそういう語を使っているんだろうと思って(笑)。私たちは、もう名前のように「靫負の命婦」と、その人を指している言葉として受け取っているので。

 新鮮であると同時に、ちょっと居心地が悪い。でも、そのちょっと居心地が悪い感じこそがお訳しになったポイントじゃないかな。

毬矢 そうなんです。それをそのまま古典に戻してしまったら、ウェイリーが訳した時のあの新しさを、感じられないのではないかなと思ったのですね。

 でも、ウェイリーって人はすごいね。

西村 日本に来たこともないし、日本語が話せたわけでもないのに、どうやってあの『源氏』をあそこまで読めたのだろうと、不思議でしようがないですね。

毬矢 そうなんです、深い読みなんですよね。それこそウェイリーは『湖月抄』も読み込んで翻訳していますし。

 『湖月抄』は当時すでにイギリスに持ち込まれていたんです。でも、『湖月抄』は草仮名で書いてあるわけですよ。まだ活字本は、ウェイリーの時代にはイギリスに行ってないと思うんです。

そもそも毛筆草体の写刻体のテキストは現代の日本人はほとんど読めないですよ。でも僕の相棒のピーター・コーニツキ君なんかも、スラスラ読む。イギリスの東洋学者はわれわれが思う学者というレベルとちょっと違って、今の言葉で「レベチ」なんじゃないかと(笑)。

毬矢 ウェイリーはもともと語学の天才で、十何カ国語できる人です。ギリシャ、ローマの古典は特に強いですし。アイヌ民話の翻訳もしています。

 えーっ、驚きですね。

毬矢 「日本の古典も4カ月で読める」と豪語して、実際に和歌も能も手がけています。

 あの時代のイギリス人には、しばしばそういう天才が現れますね。アーネスト・サトウもそうだし、ウィリアム・ジョージ・アストンもそう。語学というものが、われわれが考える語学と違うんですね。

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