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【三人閑談】
間取りという小宇宙

2023/02/24

間取りの日本近現代史

浅尾 日本は高度経済成長期に一戸建ての需要が高まった歴史がありますよね。狭い土地にいかに建てて、心地よく住むかを工夫する文化があるのではないかと。竹内さん、いかがですか?

竹内 アパートやマンションの間取り図はすでに決まっているものを読み取るものですよね。注文住宅の場合、間取りをイチから考えることになります。戦後、政府の方針もあって、庶民も持ち家を建てる時代になり、間取り図も広まりました。戦前に間取り図を拡げて家づくりを考えるのはあくまで金持ちの道楽でした。

浅尾 なるほど。

竹内 農家の住宅などは昔から定型の間取りがありますが、間取り図というものが普及したのは大正期の洋風住宅、文化住宅です。いわば舶来のもので当時の日本人には馴染みの薄いものでした。そこで大体の感じを把握するのに間取り図などの情報が必要になりました。

佐藤 洋風住宅のイメージが一般人の間で共有されていない時代だったのですね。

竹内 そうです。とはいえ、洋風住宅もまだお金持ちの世界。間取りは自分でつくるものという認識が庶民にも広まるのは戦後です。建築士の数が足りない中、皆が見よう見まねで間取り図を描き始めました。

佐藤 そういう本がたくさん出版された時期もあったと聞きます。

竹内 例えば終戦直後の住宅不足の時代は、大手建設会社が『復興住宅建築図集』という事例集をつくっています(図1)。皆が家を建てないといけないので、間取りのスタイルブックがたくさん登場しました。

図1 竹内さん所蔵の間取りの図案集など

佐藤 こういう図案集を見て夢を描いた人がたくさんいたのでしょうね。

竹内 1950年代には小中学校教科書にも間取り図が登場します。住宅改善が重要課題だったのですね。自分たちの力で自分たちの住環境を良くしていこうと思ったら、皆が間取りを読めて、問題点を発見できる能力が求められたのでしょう。驚くことに理科や社会、数学の教科書にも間取りが取り上げられています。

浅尾 各家庭で家づくりは一大問題だったのですね。すごく実践的。

竹内 こうした教科書は1950年代に盛んにつくられましたが、悲しいことに、この教科書で勉強した世代が持ち家を建てようというころには地価が高騰してしまい、思い描くような家を建てられない時代になっていました。

佐藤 間取り図を描いたり、読み解く技術だけが蓄積されてしまったわけですね。

竹内 ほかにも間取りの読み書きは戦後、いろいろな媒体を通して伝えられました。変わり種は雑誌『夫婦生活』。これはいわば家庭内の性生活に関する情報誌で売れに売れました。その裏表紙には毎号、間取り図が掲載されています。敗戦後、ひとつの家に複数世帯が同居する雑居家族が多くなります。そうした状況でもプライバシーを保ち、性生活を営むための間取りが模索される中、間取りの情報も必要になったのです。

浅尾 当時の家庭の苦心が窺われます。

竹内 1951年に住宅金融公庫が選定したプラン集では、模範的な間取りをパッケージ化して広めていました。例えば「15N6型」というと、北側に玄関がある15坪の家の6番目の型のこと。この型番を協会に申請すると設計図一式が買えて、住宅金融公庫の融資を申し込む添付書類にもなる仕組みでした。当時は建築士に図面を書いてもらうこともなかなかハードルが高かったのですね。

“取って付けた”ような洋間の登場

佐藤 以前、ワークショップのために自分なりに間取りの歴史を調べたことがあります。江戸期や明治中期ごろはお屋敷でも長屋でも障子や襖で仕切るスタイルが一般的だったようですが、大正期になると家の中に壁が増え、文化住宅のように洋風の応接間が端っこに取り付くようになる。戦後には広告を通して「間取りの文法」が浸透して、間取り図が普及していった──というのが私の仮説なのですが、いかがですか?

竹内 仰るように間取りの大衆化が進むのは戦後ですね。ただ、大衆化とは言っても、立派な家は建てられないので、お金持ちの家の縮小版みたいなかたちで一般化していったと思います。戦前の豪邸も基本は和風住宅でしたが、目上の人を招く時のみ洋館部分で応接していたようです。これは天皇陛下の生活が率先して洋式化されたことが大きく、それに倣って民間人の家にも洋間が増えていきました。

佐藤 ホテルや旅館でも天皇をお迎えする時に洋館をつくったという例を聞いたことがあります。

竹内 高貴な方々のスタイルが縮小版的に模倣され庶民住宅の応接にも取り入れられるようになります。ステータスとしての洋室が一体化して、徐々に家全体が洋風化していくのが大まかな流れでしょうね。

佐藤 私が子どものころに建てられたマンションでは、取って付けたような和室が多く見られます。

竹内 和室はせめて1室欲しい、という思いは根強いですね。洋が珍しい時代にはそれがステータスになり、洋が普及すると今度は和が新しいステータスになったりもします。

風水と家相

佐藤 日本で家相や風水を気にするようになったのはいつごろなのでしょう。

竹内 家相はもともと、村の庄屋さん、和尚さんや神主さんに見てもらうものだったそうです。間取りの善し悪しを判断してあげることも彼らの大事なスキルでした。戦後、地縁から切れたことで家相のマニュアルが求められたわけですね。

佐藤 なるほど。家相を自分たちで占うようになっていくのですね。

竹内 家相が普及した後、1990年代ごろに風水の本が盛んに出るようになりますが、Dr.コパさんが著書のタイトルに風水と謳うようになるのは1993年のことで、それまでは家相という言葉を使っています。ただ、家相と風水はそもそも別のものですよね?

浅尾 そうですね。風水は流派がとても多く、それぞれ考え方が違います。もともとの中国の風水ではお墓の方位をとても重要視しており、自分の先祖をいい場所に祀ることで子孫繁栄を願っていました。お墓の位置と自分の家を良くする考え方というのは風水の中でもいろいろあり、流派ごとにまた違います。

生まれ年と玄関の向きの関係を見る流派もあれば、いろいろな気がいろいろな方向から飛んでくるのを30年のサイクルで見る流派もある。形を見るのを「巒頭(らんとう)」と呼び、気を見るのを「理気(りき)」と呼びます。そのどちらに重きを置くかという大きな違いがあり、また、さまざまな地域で派生した流派が生まれています。

竹内 時代も変われば家のつくりも変わりますし、風水の中でも自分たちで関与できるスケールはさまざまに変化するのでしょう。そこでアレンジを加える流派も現れる。でも本来の風水は人が住む家も周りの土地も宇宙全体で考えるものという思想が根本にあるのですよね。

浅尾 おっしゃるとおりです。ですが、家の間取りと宇宙を関連づけるなんて実際は難しいですよね。

竹内 間取りが固定化されたマンションやアパートに住む人が増えると、Dr.コパさんが玄関に黄色いものを置いたらいいと言うように、個人のできる範囲で幸せになる方法を提供する傾向が現れるのでしょうね。

風水が流行り始めた1990年代は、景気低迷もありマイホームの夢を持ちづらくなった時代です。その中で幸せをつかむ方法として風水は時代の気分とマッチした気がします。

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