【三人閑談】
百人一首の奥義
2022/01/17
藤原定家は選んでいない?
佐々木 今、国文学の研究者の間でも、実は百人一首の研究が盛んです。しかし、百人一首というのは一種の鬼門で、僕などが迂闊にものを言えないところがあるのです。なぜならあまりにも有名で、ちょっとした思い付きを発表すると、集中砲火を浴びかねません。
というのも、「小倉百人一首」という呼び方が正式ということになっていて、藤原定家が選んだと言われていますが、これは実は確定した話ではなく、学界では、どちらかというと、「定家ではない」という説のほうが優勢なように感じられます。
小泉 そうなんですか。
佐々木 一般の人は必ずそう思われていますよね。でも事実を追究していくと、僕もどちらかというと「違うのではないか派」なんです。
藤原定家が関与したというのは、『明月記』という定家の日記に書いてあることが理由とされています。1235(嘉禎元)年5月27日の日記に、息子為家の奥さんのお父さん、宇都宮頼綱から定家に、嵯峨にある別荘の障子(今の襖や衝立みたいなもの)に貼るための色紙の和歌を選んでほしいという依頼があったことが見えます。それが百人一首の起源だと言われている。でも、日記には百枚書いたとはなく、天智天皇から家隆・雅経までの古来の人の歌各一首としか書いてないんです。
嵯峨の西隣が小倉山なので、この日記を見て、『百人一首』と結びつけるのも当然のことでした。
ところが、現代になってから、百人一首とよく似ているのだけど、歌人と和歌が少し違う『百人秀歌』というものが見つかり、こちらがその日記に出てくるものではないか、という説が出てきています。
小泉 なるほど。
佐々木 というのも百人一首における身分の書き方、一番わかりやすいのは最後の後鳥羽院と順徳院という天皇の名前ですが、定家が生きている時には、彼らはそう呼ばれていないんです。ただ、色紙自体には作者名は入っていなかった可能性が高くて、後の人が本の形にした時に加えたとも考えられます。ともかくも、定家の死後にその名前が贈られているのです。
一方の百人秀歌には後鳥羽と順徳が入っていなくて、身分表記なども定家が生きていた時代に合うのです。跋文的なものにも、定家が選んだようなことが書いてあったりするので、百人秀歌が定家の選で、百人一首は違うという説が生まれたのです。
さらに、定家の息子の為家が書いたという百人一首の本を、江戸時代に模写したものが見つかりました。写真版で見る限り、その筆跡は鎌倉時代のもので、為家が書いたかどうかは微妙なのですが、そういうものがあったということは、為家の時代までには成立していたとは言えると思います。そのようなものもあるので、為家が百人一首を整えたという説も有力だったりします。
浜野 そんなことになっているとは知りませんでした。
佐々木 天皇や天皇をやめた院が当時の一流の歌人に命じて歌集を作らせる勅撰和歌集がありますよね。それに入っている歌を定家が選んでいるのですが、後鳥羽院と順徳院の歌は、定家が生きている時は勅撰集に入ってないんですね。
自分が仕えた人たちで、承久の乱で流されてしまったので無理して入れたとの考え方もあるのですが、定家が関与した『新古今集』『新勅撰集』までの勅撰集にほかの歌は入っているのに、二人の歌だけ入っていないのがおかしいのは確かなんです。
それらは為家が選んだ『続後撰集(しょくごせんしゅう)』という、定家が死んだ後に編纂されたものには入っている。ですから、為家が選んだとすれば、矛盾がとりあえず解決します。ただ、ここで断言すると、袋叩きにされる危険もあって、断定はしたくないんですが(笑)。
小泉 宇都宮家の別荘のために歌を選んだのは事実なのですよね。
佐々木 それは間違いありません。そもそも個人の別荘に百枚も色紙を貼れるのかと言う人もいるんですけどね(笑)。
かるた遊びとしての発展
佐々木 また、現在、歌人の肖像画(歌仙絵)と歌がセットになっていますが、百人一首にいつ絵が加わったかというと、江戸時代になってからではないかと言われています。歌を詠んだ人の姿をその歌と一緒に描くことは平安後期ぐらいからあるのですが、百人一首はもっと時代が下るのです。
浜野 かるた遊びになったのが江戸時代からですよね。
佐々木 そうです。かるたはポルトガルから入ってきて、「うんすんかるた」(トランプを日本でつくりかえたカルタ)が変化して百人一首などになったと言われています。かるたの形の百人一首は江戸時代にならないと見られないのですが、17世紀には相当たくさん質の高いかるたが出回っています。
小泉 最初に誰が絵を描いたかというのはわからないんですよね。
佐々木 わからないです。江戸の割と早い時期に出版されたものや手書きのかるたなどを見ると、細かいところは違っても、基本的な絵姿の定型ができあがっていることがわかります。猿丸が右手を上げているとかは、それ以前の別の作品の姿を真似しているのですが、わかりやすい特徴です。
小泉 様式が決まっているんですね。
佐々木 ただ、浮世絵師なんかが現れてくると、違うバリエーションを作っていて、歌人が立ち上がったり後ろを向いたりします。
それから「小倉」と付いているのは、いろいろなバリエーションのものがあるからで、室町時代に将軍足利義尚が選んだとされている『新百人一首』というものもあります。文武天皇から始まって花園院まで、百人全部違う人の歌を選んでいます。江戸時代にはパロディーみたいなものも作られていますね。
小泉 定家の日記には百首選んだとは書いてないわけですから、どこかのタイミングで『百人一首』という名前をつけた人がいたということですよね。江戸時代には全国に広まったということですか。
佐々木 江戸時代には百人一首の本やかるたがどんどん作られていました。地方にもたくさん残っていますし、普及版みたいなかるたもたくさんあります。それから慶應義塾創立の頃に刊行されたこんな絵入の豆本もあります(写真)。
小泉 かるたになったことがきっと大きかったのでしょうね。宣伝というか戦略が上手かったんでしょうね。百人一首までは、流行ったかるたはなかったんですか。
佐々木 「伊勢物語かるた」とか、「源氏物語かるた」とか、論語を素材にしたり、漢文のものも含めて、ものすごい種類があります。百人一首にもいろいろな種類があるのですが、結局、一番上手く生き残ったのが「小倉百人一首かるた」なんですね。
百人一首は万葉集の時代から和歌が文芸として頂点を極めたと言われる定家の時代までを網羅して、それを学ぶだけでコンパクトに和歌の歴史や歌の読み方を学べるということから、室町時代ぐらいから和歌を学び始める人の教科書的なものの1つとされていました。
また、注釈書が室町時代ぐらいからたくさん作られて、江戸時代になると何種類も出版されています。百人一首を学問化した世界もあるんですね。
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