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【三人閑談】
魅惑のチョコレート

2021/02/25

  • 野秋 誠治(のあき せいじ)

    一般財団法人森永エンゼル財団研究員。1972年慶應義塾大学商学部卒業。森永製菓株式会社入社、史料室長時に定年。日本アーカイブズ学会登録アーキビスト、企業史料協議会理事、日本菓子BB協会スタッフ。

  • 山下 貴嗣(やました たかつぐ)

    株式会社βace代表取締役CEO。2007年慶應義塾大学商学部卒業。豆からチョコレートを製造販売する「Minimal - Bean to Bar Chocolate -」代表。自ら世界中のカカオ産地に足を運ぶ。

  • 本谷 裕子(ほんや ゆうこ)

    慶應義塾大学法学部教授。1996年慶應義塾大学大学院社会学研究科修士課程修了。家政学博士。専門はラテンアメリカ研究、文化人類学、民族服飾学。著書に『ラテンアメリカ世界のことばと文化』(共著)など。

国産チョコレート第1号

本谷 2月と言えば、バレンタインシーズンですが、森永製菓さんではいつごろからチョコレートをつくりはじめたのですか?

野秋 カカオ豆からの一貫製造は1918(大正7)年で、日本では森永製菓が初めてです。今日はミルクチョコレートをお持ちしましたが、パッケージに「since 1918」と書かれているでしょう。

山下 それまでは輸入をしていたわけですか。

野秋 外国から原料となるビターチョコレートを輸入し、それを加工してつくっていたようです。

森永製菓はもともと、米国で西洋菓子の修業をした森永太一郎が1899年に赤坂溜池で創業した会社です。むこうでチョコレートが庶民のお菓子として普及しているのを知り、後に2代目となる松崎半三郎とともに、日本でチョコレートをつくろうと思った。チョコレート一貫製造用の大型機械を導入したそうですが、まだ、日本で受け入れられるかどうかもわからなかったわけで、当時は大きな決断だったと思います。

「チョコレートとは」といった、蘊蓄を書いた広告を新聞に出して普及に努めました。その後、日本では明治さんや大東カカオさんなどが一貫製造を始めたわけですね。

山下 この板チョコのレトロなパッケージは、当時のデザインの復刻版ですか。

野秋 実はこのパッケージは100年以上、大きくは変わっていないんです。見慣れないお菓子をできるだけ親しみやすいものにしようとしたのでしょうね。

山下 僕は中南米やアフリカ、アジアのカカオ生産者のもとへ直接豆を仕入れに行くのですが、森永さんが最初に使ったカカオの産地はどこだったのでしょう?

野秋 残念ながら記録が残っていないですね。想像ですが、商社を通じて輸入したのではないかと思います。

戦前まで森永製菓の主力はミルクキャラメルだったんです。というのも、当時カカオは輸入の割当があって自由に輸入できなかった。戦後間もなく、多くのメーカーがチョコレートを売り出すようになるのも、カカオの輸入割当や関税等が緩和されたことが大きいと思います。

それによって戦後の経済復興とともに、お菓子が手頃になり、チョコレートもより広く食べられるようになっていったんですね。

日本のものづくりをチョコレートに

山下 私は株式会社βace(ベース)の代表として、「Minimal - Bean to Bar Chocolate-(ミニマル)」というチョコレートブランドを運営しています。6年前にカカオ豆を現地の生産者から直接仕入れてつくる、スペシャルティチョコレートのブランドを立ち上げました。現在都内に2店舗を構えています。

本谷 大変な人気ですよね。山下さんがチョコレートの道に入られたのは何がきっかけでしたか?

山下 僕は今36歳ですが、20代のころはコンサルティング会社で普通にサラリーマンをやっていたんです。これから少子高齢化で労働人口が減ると、生産性を上げてもGDPは下がっていく中で経済活動を通して自分が貢献できることは何だろうと思ったときに思い当たったのが日本人の細やかさを生かした、クラフトマンシップによるものづくりの世界でした。

「自分が当事者としてものづくりをやりたい」という思いの中でBean to Bar(カカオ豆からチョコレートバーになるまで一貫して製造を行うこと)の文化に出会って起業しました。このムーブメントは2007年頃、米国の人達が火付け役となり、2013年頃に本格化したようです。

本谷 ミニマルの創業が2014年ということですから国内では先駆け的な存在ですね。

山下 西洋発祥のチョコレートは、フレンチのように油を重ねていく技術に数百年の歴史的な蓄積があります。それに対して私はBean to Barを足し算ではなく、「引き算のチョコレート」として再定義しました。カカオという素材以外をできるかぎり「引いた」ところで何ができるか、と。日本人の手仕事の良さを生かしながらグローバルな市場で戦うなら、この考え方は面白いのではないかと。

チョコレートはカカオの発酵プロセスがポイントです。私は専門家の先生から発酵技術を学んで、日本酒などの発酵技術をカカオ豆の発酵に応用しました。

本谷 発酵というひと手間が重要なんですね。

山下 カカオ豆という素材の味の引き出し方はワインと似ていて、品種やテロワール(産地)、農法、発酵方法、輸送方法などによって条件づけられます。

例えば輸送時のコンテナの温度設定や豆の火入れの時間、砕き方、油の取り出し方まで、それぞれ細かく変えると全く違う風味が生まれます。

チョコレート史を覆す発見

本谷 私はメソアメリカ(現在のメキシコからコスタリカまでの地域)と呼ばれる、まさにカカオが生まれた場所の文化や風俗を研究しているのですが、カカオの原産地ではチョコレートを古くから飲み物として消費してきました。

山下 そうですよね。

本谷 実は2011年と18年にチョコレートをめぐる大発見がありました。米国南西部の先住民であるプエブロインディアンがチョコレートを飲んでいたことと、南米エクアドルの遺跡で発掘された石と陶器から最も古いカカオが発見されたことで、カカオをめぐる2つの通説が覆されたのです。

メキシコやグアテマラの考古遺跡などからカカオが発見されていたので、それまではメソアメリカがカカオの源流と言われていました。ところが、この発見により、エクアドルがルーツであることがわかったのです。

また、メソアメリカ地域のアステカ文明やマヤ文明の出土品から、チョコレートは貴族階層の効能品や嗜好品と考えられていました。ところが、プエブロインディアンは、庶民もチョコレートを飲んでいたようです。

山下 すると南米がやはりルーツとなるのでしょうか。

本谷 現時点でのルーツは南米が有力です。でも、カカオに関する史料はメソアメリカ地域のほうが多いと思います。例えば、カラクルムというマヤ文明の遺跡では、カカオを飲む姿が描かれた壁画が見つかっていますし。

アステカ文明は広域にわたる交易によって栄華を極めました。その交易で、カカオは高い価値を誇っていたようで、交易を通じてカカオが広まったと言われています。アステカの王族はチョコレート飲料を好み、1日に何杯も飲んでいたという記録もあります。

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