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【三人閑談】
"ゾンビ"がやってきた!

2020/03/25

日本人のゾンビ受容

山下 ゾンビってやはり黙示録(Apocalypse)の世界なんですね。世の終わりに死者がイエスとともに墓場から復活するということです。でも、日本人はその感覚を持っていないから、なぜ世の終わりで死者が墓場から出てくるのか、よくわかっていないと思うのです。

マイケル・ジャクソンの「スリラー」を見ても、あれが黙示録のパロディーだと僕らにはわからないんですが、あのマイケル・ジャクソンはイエスのパロディーかつオマージュで、墓場から死体が蘇るのは黙示録の記述に基づいている。

日本人がゾンビを受け入れる時、そこの一番重要なところがわからないから、いろいろ変容してしまうのではないか。その結果の1つが、「キモカワ」とか、そういう表現方法になっていくのかなと。

岡本 おっしゃる通りで、裏の意味や文脈は抜け落ちて、表現だけが入ってきてしまったのだと思います。だから、邦画のゾンビ映画って数はそれなりにあるんですけど、あまりヒットせず、一般の人が見て楽しむような映画にはなかなかならなかったんですね。

最近、いいゾンビ映画が出てくるようになったのは、やはりウイルスだと思います。ウイルス感染の恐怖は実感としてよくわかるのです。

山下 今、まさに中国で流行っていますし。

岡本 日本の「キモカワ」の話で行くと、やはりハロウィンの影響が大きいのではと思っています。血糊を塗ったりするゾンビメイクですね。

日本でハロウィンがなぜ流行っているのかがそもそも謎ですが、なぜゾンビメイクが受けるのかというのも不思議です。でも、僕が今、この格好で「ドラキュラ伯爵です」と言ったら、「何言っているの、おまえ」となりますが、血を模した赤色を付けてゾンビだと言えば「まあ、そうかもね」という話になる(笑)。

山下 楽ですよね。ドラキュラになるにはオールバックにしてとか、いろいろやらないといけないけど。

岡本 ゾンビのイメージは確定していないので、すごくやりやすい。

山下 それで何か適当にうろうろと歩けばいいので。

岡本 だから、ゾンビメイクをして渋谷を歩いている女の子に、「ジョージ・A・ロメロって知ってる?」と聞いたら、ほぼ100%知らないでしょう。

宿輪 それは知らないでしょうね。

岡本 『バイオハザード』も知らないかもしれない。だけど何となくイメージができていて、お互い、「あ、ゾンビだね」と認識し合える。この緩さがポイントだと思うんです。

長く続いているジャンルって、ある種の緩さがありますよね。「走ったらゾンビじゃない」と言われていたのが、皆が認めてどんどん広がっていく。これが、コンテンツが続いていく上で重要だと思うのです。

山下 そうですね。「スリラー」を初めて見た時、ゾンビはちゃんと動けないはずなのに、統率されたダンスができるというのは、あり得ないからパロディーとして面白かった。でも、今はその感覚がなくなっていますよね。

宿輪 「スリラー」のあの踊りはインドからとっているんですよね。インドの映画って『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995年)のように、スーパースターが真ん中にいて、周りの人が合わせて踊る。「スリラー」は典型的なインドの踊りがベースです。

岡本 インドでも『インド・オブ・ザ・デッド』(2013年)というゾンビ映画がありますね。

宿輪 あれは素晴らしい。

岡本 冒頭に「スリラー」のオマージュがあります。

宿輪 インド映画で面白いのは、必ず踊りがなければいけないのです。今、インドが一番映画を作っていてボリウッドが有名ですが、実は4種類ぐらい映画の産地がある。ボリウッドは明るいですが、南部のほうは電気が通っていないところもあるので、まだ幽霊的なものが出てくる余地があって暗い作品も多いです。

死者と人間の狭間で

岡本 ゾンビの怖さというのは複雑ですよね。第一義的には、襲われる怖さが1つ。後は、自分がゾンビ、つまり加害者になってしまうのではないかというところもありますし、自分が大事にしている人がゾンビになったらどうしようという、かなり複層的な怖さがあると思います。

最近のものでちょっと面白いのは、意識のあるゾンビが増えてきているんです。

宿輪 確かにそうですね。

岡本 それから、ゾンビと人間の「間」になってしまうような人が出てくる。今、大ヒットしている『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』という漫画作品(アニメもあり)がありますが、あれも主人公の妹が「鬼」になってしまうのだけど、人を襲わない、すごく微妙な存在になってしまう。人間は鬼を殺そうとするのですが、主人公が「いや、この子は人間を喰わないのだ」といって守る話なのです。

アメリカでも『ウォーム・ボディーズ』(2013年)という、イケメンゾンビと人間女性の恋の映画があります。実は話のもとは「ロミオとジュリエット」なのですが、それを「ゾンビ&ジュリエット」でやっている。この映画では、ゾンビになるとあまりしゃべれなくはなるのですが、頭の中の声は饒舌で意識はあるのです。ところが時間がたつと、「ガイコツ」という意識が全くなくなり人に襲いかかる別の存在になってしまう。ゾンビたちは人間と非人間の「間」の存在として描かれている。

ゾンビが、全くコミュニケーションをとれない存在ではなくて、とれそうだけどとれない。そのような他者を表し始めているというのが最近の面白い特徴かと思います。

山下 ゾンビと会話をするというのは、かつてはNGでしたよね。

岡本 そうですね。『バタリアン』(1985年、米)ではギャグとして描いていましたが。

宿輪 昔は吸血鬼でしたが、今のアメリカのドラマはゾンビのものが多いですよね。

岡本 はい。ロシアのですが、美女だけがゾンビになるというムチャクチャなものもある。美女ってどう判定するんだと(笑)。あれも普通に話して暮らせて、コミュニケーションがとれる状態なんですよね。

多くのゾンビ映画で、人と人との関係性、他者を排斥しまうのか、仲よくできるのか、第3の道があるのかが描かれています。片やパニックになる恐怖感をあおる迫力ある映像で、アトラクションムービーとして発展している一方で、個と個の関係を丁寧に描写するものもあって飽きません。

ロメロの意図したもの

宿輪 アトラクション系のアメリカ映画にとって、ライバルはディズニーランドですからね。「映画に行きますか、ディズニーランドに行きますか」というところがある。

岡本 「リアル脱出ゲーム」というのがありますが、ああいう謎解きゲームの流行の中にもゾンビがあちこちに見られます。

宿輪 そもそもロメロの『ゾンビ』(1978年)だって、ショッピングセンターから脱出するところがポイントじゃないですか。『アイ・アム・レジェンド』もそうだけど、脱出というのがキリスト教的なものを感じさせますよね。最後に脱出して、まだ残されていた聖なる地に行くという。

岡本 なるほど。モーゼというわけですね。

宿輪 子どもの頃、『ゾンビ』を見て結構衝撃でしたよね。ショッピングセンターがゾンビで埋まっているところに、暴走族がやって来て、荒らしまくって、一体これは何なのかと(笑)。

山下 当時は本当に怖かったですけど、数年前に見返したらそうでもない(笑)。

宿輪 最後に生き残ったのは黒人と妊婦の女性です。それまではアメリカ映画の主人公にならなかった人たちですよね。

山下 ロメロは、黒人問題は結構意識的にやっている感じがあって、黒人が白人に襲われる『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)も「黒人運動の裏返しか?」と言われた。たぶん、それから意識してやったのかなという気がします。

岡本 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではあまり意識していなかったようですが、その後はたぶん考えていますよね。だから、『ゾンビ』のラストシーンは、おそらくそういうメッセージが読み取られるだろう、と計算しているのではないかという気がします。

山下 でも、それがやりたくてやっているのではないところがロメロのいやらしいところというか(笑)。

岡本 そうですね。ロメロだと、『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005年)という作品が、かなり価値観が輻輳していて、ロメロ作品の中では評価があまり高くないのですが、僕は割と好きです。『死霊のえじき』(1985年)も好きですけど。

宿輪 第一人者ロメロも亡くなってしまいましたからね。

岡本 もう三年前になりますかね。『ロード・オブ・ザ・デッド』という作品を最後に撮っていたらしいという話があります。

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