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【三人閑談】
新・駅弁の愉しみ

2019/12/25

「いかめし」「シウマイ」の起源

今井 「いかめし」ができたのは昭和16(1941)年です。戦争中の兵隊さんたちが、北の旭川の駐屯地を目指している時に、すごくお腹を空かせているのを先代の妻が見ていて、何とか兵隊さんたちのお腹を何かで満たせないかと、「いかめし」を発明したそうです。

先代は父のおじに当たります。今では考えられませんが、当時、森駅の海辺にはイカが大漁でとても余っていました。このイカをどうにかできないかと、まずイカの中に北海道産のトウモロコシやジャガイモを詰めて煮たのですが、最終的に、やはり安くて一番お腹にたまる、もち米と普通のお米をブレンドした「いかめし」が一番、おいしかった。このように、兵隊さんたちのために「いかめし」を作ったのが最初なのです。

高見澤 いかめし自体、阿部商店さんが最初に作られたのですか?

今井 そうです。イカの中に何かを入れて煮るというのは北海道にあったみたいですけど、ご飯、特にもち米を入れるというものはなかったみたいです。

野並 「シウマイ」が販売されるのは昭和3(1928)年のことで、それまでは本当にありきたりの商品を販売していました。横浜はご存じのとおり、幕末の開港から出来上がった街で、歴史もなく、地元の名物なんて何もなかったんですね。

関東大震災の後、野並茂吉は、何か特色のあるものを出さなければと考え、横浜の南京街(今の中華街)で出されていたシューマイを見て、これを工夫すればいいんじゃないかと考えたそうです。

そこで、南京街の点心職人呉遇孫をスカウトし、昭和3年、冷めてもおいしい「シウマイ」が完成したんです。揺れる列車内でもこぼさないよう、一口サイズとしたんですね。

今井 最初から売れたのですか?

野並 いえ、当初は社長の道楽だと思われていたようです。飛行機から無料券をばらまいたりして(笑)、なんとか「シウマイ」を売りたいけれど、なかなか火がつかない。

戦後になってあるとき、タバコのピースを銀座できれいな女性が配っているのを見て、これはおもしろいと。当時の駅の構内の仕事は、重いものを持つので男性の仕事だった。これを、昭和25(1950)年に「シウマイ娘」という形で女性の売り子さんが売る形に変えていったところから火がつき始めました。

そうしたら、獅子文六の『やっさもっさ』という新聞小説の中で、シウマイ娘がヒロイン役として出てきて、これが映画化までされたおかげで一気にシウマイという名前が広がってくれたんです。

「シウマイ弁当」という形になったのは、シウマイを売り始めてから26年後の昭和29(1954)年のことです。

左より「シウマイ弁当」「峠の釜めし」「いかめし」

「冷めてもおいしい」をつくる

野並 飲食店で出されるシウマイは、出来立て、蒸し立てのものが一番で、それ自体は冷めた状態だとまずいのです。先ほどおっしゃられたように、出来立てを食べさせることができない商売なので、時間が経ち、冷めた状態でもおいしいシウマイを作るということが大事でした。

高見澤 崎陽軒のシウマイは独特のものがありますよね。

野並 帆立原料は一切、変えていません。豚肉はいろいろな部位を入れて作っていますので部位の差は存在する。それをミックスすることで均一な状態を作っています。

今では干し帆立貝柱を入れているシウマイは他でも売っていますが、当時、豚肉と干し帆立貝柱をミックスして作ったというものは新しかったようです。その辺のいいブレンド具合が、冷めてもおいしい状態である工夫だったようですね。

高見澤 まさに、弊社も冷めてもおいしいことを想定して、逆算して作っていますね。「冷めてもおいしい」ということは、やはりお弁当としては必要最低限の条件じゃないかなと思います。

今井 「いかめし」も、冷めてもおいしい。それをいつも言っています。

「いかめし」は戦時中、兵隊さんたちのあいだで話題になっていたみたいですが、特に人気が出たのは戦後からですね。

森駅って本当に何もないところなんですよ。「いかめし」というブランドがその当時からずっとすごく根付いているのは、逆に何もないおかげなのかなと思うのです。「いかめし」を買うしかないからと(笑)。

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