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【三人閑談】
新・駅弁の愉しみ

2019/12/25

  • 高見澤 志和(たかみざわ ゆきかず)

    株式会社荻野屋代表取締役社長。2000年慶應義塾大学法学部法律学科卒業。2018年同大学院SDM研究科修了。2012年6代目社長就任。荻野屋は、明治18年横川駅の構内営業権取得。昭和33年より「峠の釜めし」を販売。

  • 野並 晃(のなみ あきら)

    株式会社崎陽軒専務取締役。2004年慶應義塾大学経済学部卒業、2011年同大学院経営管理研究科修了。2016年より専務取締役。崎陽軒は明治41年、横浜駅(現桜木町駅)構内で創業。昭和3年より名物「シウマイ」を販売。

  • 今井 麻椰(いまい まや)

    株式会社いかめし阿部商店3代目。2013年慶應義塾大学環境情報学部卒業。海外留学を経てBSフジにてキャスターを務める。現在バスケレポーターのかたわら「いかめし娘」としても活動中。いかめし阿部商店は明治36年、北海道森駅構内で創業。

駅弁業のはじまり

高見澤 弊社は弁当屋としての創業が、信越本線横川駅の開業と同じ明治18(1885)年なのですが、実は創業以前に、横川より軽井沢寄りにある、今は霧積(きりづみ)温泉と言われているところで温泉旅館をやっていたのがスタートです。

そこは主要五街道の1つの中山道の宿場町として栄えていました。それが明治になって、交通が大きく変わってきた頃、たまたま後の首相の桂太郎が宿泊され、鉄道(信越線)開通の情報を得たそうです。それで、横川駅前で何かビジネスをしたらどうだろう、と駅弁屋を始めたというのが弊社の起源です。

当初は「釜めし」ではなく、おにぎり2つと、たくあん2切れを竹の皮に包んで、というスタートでした。

野並 弊社は当時の横浜駅(現在の桜木町駅)の4代目の駅長をしていた久保久行という人が、定年を迎えて引退する際、横浜駅構内での営業権をいただいたのが始まりです。

今でいうキヨスクみたいなところで、販売しているものは、牛乳、サイダー、タバコ、餅といったものでした。食べるものもありましたが、まだ駅弁とまで名乗れるかどうかというもので、当時は野球場の売り子のような立ち売りだったようですね。

今井 うちも、もともと阿部旅館というものを営業していたんですが、明治36(1903)年、函館本線森駅が開業したのと同時にお弁当業も始めたのが始まりです。

その後に旅館業を廃業して昭和16(1941)年からお弁当一本になりました。このときに「いかめし」を販売開始し、そこから今に至るという感じですね。

高見澤 旅館業から駅弁を始めたところは同じですね。野並さんがおっしゃられたように、構内営業権を取って始めたというところも弊社と全く同じです。構内営業権を取るのは結構大変だったみたいですね。

今井 うちも森駅開業とともに取ったみたいです。

野並 その後、大正に入ると横浜駅と平沼駅の間に新しい横浜駅(現在の横浜駅)を設け、平沼駅を廃止するという計画が起こったんですね。

当時平沼駅には東洋軒というところがあり、さらに別の会社も横浜駅での構内販売の申請をしたのです。申請を受けた東京鉄道局は3社が共同で経営することを条件にし、ここに、大正4(1915)年、現在の横浜駅開業と同時に、匿名組合崎陽軒が新たにスタートしました。そして間もなく、私の曾祖父にあたる野並茂吉が支配人になりました。

「峠の釜めし」の誕生

高見澤 弊社は明治18年開業ですが、「釜めし」を売り出すのは昭和33(1958)年です。

今井 かなり間がありますよね。

高見澤 そうなんですよ。その間、非常にいろいろあったみたいです。

第2次大戦が終わった後、物資難が厳しい中、開店休業みたいな感じだったらしいんです。お弁当も全然、売れなかったそうで、非常に経営が苦しい状況でした。

横川駅は小さな駅で、隣に軽井沢駅、少し行くと高崎駅と、大きな2つの駅に挟まれ、そこで皆さんお弁当を買ってしまっていた。このままではまずいということで、私の祖母・高見澤みねじが「釜めし」を発案したのです。

実は祖母は嫁いできていて4代目に就任したのですが、旦那である3代目は34歳で亡くなってしまった。経営難と夫がいないというダブルパンチに見舞われながら、荻野屋をつぶしてはいけないと、売れるお弁当を作ろうとしたんですね。

野並 大変な意志ですね。

高見澤 高崎や軽井沢で弁当が売れているので、需要があることは分かっていました。そこで、やはり何か特長のあるものを作ったほうがいいと、お客さまの声を聞いて回ると、「温かいお弁当が食べたい」という話が出たそうです。

当時は幕の内弁当が主流で、どこに行っても同じようなもの。温かさを保つのは非常に難しかった。試行錯誤する中、ある日、釜の容器を業者さんが持って来た。陶器は加熱すると保温性が高いので、この陶器にお弁当を詰めて売ったら温かい弁当が実現できるのでは、と具材を詰めて売ったのが「釜めし」でした。

具材についてもお客さまから聞いて、家庭的な素朴な味を試行錯誤して作りました。また特長のあるものを入れようと、崎陽軒さんもそうですが、アンズが入っていたり、栗だとか当初は地域で採れる食材を入れて。

今井 釜の形は最初から変わっていないのですか。

高見澤 多少、マイナーチェンジはしていますけど、基本的にはこの形でずっときています。でも売り出して、すぐに売れたわけではないんです。実はあの陶器が重くて、しかも値段が高いということで、まず国鉄の販売許可が下りなかったらしい。

当時、他のお弁当が80円でしたが、原価計算するとどうやっても120円じゃないと採算が合わない。そんなに高いものを売っては駄目だと、販売許可が下りるまでに時間がかかった。また、重いので、当初は売り子が売りたがらなかった。

でも、発売から半年くらいたったある日、雑誌の記事に取り上げられたら突然売れ出した。本当に小さなコラムでしたが、ここで紹介されたことで火がついて、生産が間に合わないほどになったそうです。

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