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【三人閑談】
サリンジャー生誕100年

2019/10/24

「生きづらさ文学」として

蛙田 サリンジャーの文学は「生きづらさ文学」ではないかと思うのです。私は「小説家になろう」というウェブサイトで小説を連載しているのですが、そこでは、トラックに轢かれて死んでしまって、ドラクエとかファンタジーの世界に転生していくという小説が非常に流行っていました。現実世界は生きづらい。だから、その現実から飛び出したいわけですね。

私たちはエンタメとして書いていますが、アプローチはまったく違っても、サリンジャーの文学には同じテーマ性みたいなものはすごく感じています。そのように「生きづらさ文学」として、この後も読まれていくのかなと思うんです。

あと、最初に尾崎さんが、『天気の子』でカップラーメンのふたに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を使ったことに憤慨されていましたけれど。

尾崎 ええ、そうでしたね。

蛙田 世代なのかもしれないですが、あの感覚はよくわかるのです(笑)。おしゃれなアイテムである『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をカップラーメンのふたとして日常と一緒に置いておきたい感じ。これにはグッときたのですね。

尾崎 なるほど、そういう感じ方もあるんですね(笑)。

蛙田 そうなんです。「新海誠はわかっている、その感じなんだよ」みたいなものがあったんです。

尾崎 なるほど、世代によって全然感じ方が違うということですね。でもそれを受け継いで、蛙田さんがこれから一人称小説で何か生きづらさとか、そういうものを発信できるわけで、それはサリンジャーの影響と言えなくもないですね。

蛙田 遠いかもしれませんが、恋人の先生みたいな立ち位置の作家なんです。それで、私も「サリンジャーの孫」みたいな感覚は持っています。おじいちゃんですかね(笑)。

尾崎 サリンジャーの血がつながっているということで、期待しています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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