三田評論ONLINE

【三人閑談】
サリンジャー生誕100年

2019/10/24

女性から見た視点

蛙田 今の女性にもやはりサリンジャーは人気で、『MOBY-DICK』は読んでいないけれど、『ライ麦畑』は読んでいるという人は多いと思います。

尾崎 僕は、「ホールデンは自分だ」というふうに入り込んでしまったから、女性はむしろ入り込みにくいのかなと思ったりもしたんですが。

蛙田 そうではなく、「ホールデンはしょうがない子だな」みたいな感じで読むのではと。

「マッチョ」からは降りている作家だと思っていて、そういうところは読んでいて心地いいというか、「臭くない」というところもあるかもしれないですね。

尾崎 最終的にホールデンは、小さい妹のフィービーに救われるわけです。そういったところが、ひょっとしたら女性が読んでいて心地いいのでしょうか。

蛙田 そういうところもあるかもしれません。私は冒頭の「君」が自分のことだとは、つゆほども思いませんでしたから。精神病棟の隣の人かな、くらいに思っていて。

ソーントン 10年ぐらい前のドキュメンタリーで、サリンジャーにロリコンっぽい傾向があったと言われましたね。

小説の中ではそうは伝わってきませんが、アメリカでは今、「me too現象」などもあって、サリンジャーの女性観も見直しが起きている面もあるのかとも思います。

尾崎 娘さんのマーガレットが書いた伝記『我が父サリンジャー』(2001年)の中に、お父さんは私が結婚すると言ったら急に冷たくなった、と書いている箇所がある。要するに、無垢な少女ではなく大人の女性になると、サリンジャーにとって、堕落したということになるのでしょう。だけどそんなことを言われても、いつまでも女の子ではいられない。

実の娘さんも、父親であるサリンジャーをロリコン的な感じで見ているところがあります。

ソーントン ヒンクリーという、レーガンを暗殺しようとした人物は、そういう傾向が非常にあったようで、『タクシー・ドライバー』のジョディ・フォスターにすごい執着心があったのです。そういうところに影響を受けてしまう人もいるんですね。

尾崎 いろいろな面でサリンジャーは多分嫌なやつで、友達としてもつきあいにくかっただろうと『ライ麦畑の反逆児』の映画を見ても思うのです。にもかかわらず、僕のような『ライ麦畑』ファンは最終的に許してしまう。

やはりそれは、ストックホルム症候群に近いと思っていて、ある時期、非常に濃厚な読書体験をしてしまうと、後からサリンジャーの嫌な面がわかっても、ファンは、「そうだろうね。だけど俺は好きだよ」という、善悪の彼岸になってしまうんです。サリンジャーファンにはどこかそういうところがあると思いますね。

日本語訳による違い

ソーントン 村上春樹は、サリンジャーをどう見ているのですか。

尾崎 影響は濃いですよね。蛙田さんは村上訳は読みましたか?

蛙田 ペーパーバックエディションで読みました。

尾崎 野崎訳と比べてどうでしたか。

蛙田 正直、ものすごく読みやすかったです。野崎訳のように「奴(やっこ)さん」とか言わないし。野崎訳はやはりすごく古い訳だなあ、と思うのです。

尾崎 僕は世代が違うので、やはり野崎訳が圧倒的にいいんですよ。村上訳も読んだのですが全然ダメ。

例えばアメリカ人って、「アーム(uhm)」と言うじゃないですか。あれを「あーむ」と書くんです。野崎さんはそういう擬音語みたいなものは訳さないんですが、村上さんは訳す。でもそれが日本語としてすごく違和感がある。

これはサリンジャーの本というより村上さんの小説だと思うのです。サリンジャーを訳しながら、自分の作品に変えているような感じがして、僕はあまり好きではないですね。「cool as a cucumber」を「キュウリみたいにクール」とか、そのまま日本語に訳すところが僕が嫌いなところです。それを僕の一番大切なこの本の中でやるから(笑)。

だけど、やはり村上さんが自分の小説のように『Catcher』を訳しているということは、村上さんの感性と、サリンジャーの感性が非常に近いのでしょうね。だから訳しているうちに自分の小説になってしまうところがあるのだろうと思います。僕は村上ファンではないので、余計なことするなよ、というところはあるんですけど。

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