三田評論ONLINE

【三人閑談】
サリンジャー生誕100年

2019/10/24

タイトルの喚起力

ソーントン 私はオリジナルしか読んでいないので、村上春樹さんの翻訳は非常に気になってはいます。オリジナルの文章は非常にリズム感があって、ニューヨークのイーストコーストの話し方がすごく伝わってきます。これが翻訳でどのように表現されているのか。

尾崎 野崎訳はすごくよく考えられているんですよ。言われたような、ホールデンのしゃべり方やリズムをどうやって日本語に置き換えるかすごく研究されたらしいです。

彼がこれを訳していた頃、植草甚一というエッセイストがいました。彼はそれまでの日本語にないような口語的な文章を書いていた。「きのうは雨が降ったから、ジャズばっかり聴いていたよ」みたいなエッセイです。その植草甚一の非常に口語的(colloquial)な文章というのは、すごく評判になったんです。

根拠はないのですが、野崎さんは、植草甚一の非常に斬新な口語体を読んで、「これだ」と思って、それで若い人の口調で訳し始めたんじゃないかと思うんですね。野崎さんのこの訳は、当時とすればかなり画期的なことだったのだと思います。

それこそ「奴さん」もそこから出てきているんじゃないか。それまで翻訳の文章で「奴さん」なんて言い方は出てこないわけです。

野崎さんが偉いと思うのは、この後10年以上してから新訳版を1984年に出したことです。これが今も読める版ですが、旧版とは訳が全然違う。

蛙田 え、そうなんですか。

尾崎 もう何千カ所というぐらい、言葉の一つ一つを、細かく変えています。

でも、同じ出版社から、野崎訳と新しい村上訳が、同時に今でも売られているというのはすごく珍しい現象で、この小説以外ないですよね。

蛙田 村上訳は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、野崎訳は『ライ麦畑でつかまえて』なので、私もそれぞれが別個の作品というか、そういう気持ちで読みました。

尾崎 でも、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは少し変ですよね。『The Catcher in the Rye』だから、「ライ麦畑でつかまえる(人)」でしょう。それを「つかまえて」というと、「僕がつかまえる」のではなく、「僕のことをつかまえてくれ」というイメージで読むじゃないですか。

でも、そのタイトルにしたのは、野崎さんの大発見だと思います。このタイトルはすごい。これが『ライ麦畑の捕手』だったら絶対売れない。だけど『ライ麦畑でつかまえて』と言われると、「私は誰かにつかまえてもらわないとダメだから、つかまえてくれ」というイメージになる。そこで、読む人は、「では私がつかまえてあげましょう」といって買うわけです。

孤独なホールデン

ソーントン アメリカでは、サリンジャーのすぐ後のビートジェネレーションの作家のジャック・ケルアックや、ジェームズ・ディーンの『Rebel Without a Cause(理由なき反抗)』、そして60年代の「Civil Rights Movement(公民権運動)」などが出てきた原点にはサリンジャーがいるとも言われています。

サリンジャーが日本でここまで多くの読者に支持されてきたのは、日本でも例えば学生運動とか、大人や政治家たちの汚い、何でも妥協する世界に対する反抗というようなものが背景にあったのでしょうか。

尾崎 それはあったと思いますよ。村上春樹など僕よりもう一回り上の人たちの世代の頃には、日本でも学生運動などが盛んでしたから、それに対して自分たちの純粋さと、社会の邪悪さへの告発を、この『ライ麦畑』が代弁してくれたと。

ソーントン 『The Catcher in the Rye』に出てくるエートス、大人社会に反抗する気持ちというのは、今だと例えばシリコンバレーのアップルなどの企業に受け継がれているようにも思えるんです。

サリンジャーがある意味ルーツである、「皆と同じことをするな」という考え方をビジネス界が、「それは格好いい」と取り入れて、メインストリームの文化になってしまったところがあるような気がします。

尾崎 そうかもしれませんね。逆に、これからの若い人が『ライ麦畑』を読んで、どう思うんだろうという興味はありますね。この先、果たして読み継がれていくのか。

僕自身は上の世代の人に「これ面白いよ」と言われて読んだのではないので、若い世代に勧める気はない。上の世代から「君たちの気持ちにぴったりだよ」などと言われたら、逆に読まないと思うのです。

蛙田 そうかもしれませんね。

尾崎 僕も若いときは、『ライ麦畑』の魅力は、純粋さ、イノセンスにあって、邪悪な世界に対し、イノセンスの側にいる自分をホールデンが代弁してくれているんだ、と考えていたんですが、最近、少し読み方が変わったのです。

冒頭で、アメフトの対校試合をやっていますね。一番人気のある行事だから全校の生徒が皆そこにいる。だけど、ホールデンだけは一人離れて、運動場が見える丘の上にいるのです。そして自分は高校を退学させられる。試合を遠くに見ながら、自分はこの友達とは違うところにいるんだなと思い、彼なりにグッドバイを言うわけです。

ここに自分がいるべき場所がなくて寂しい、一体自分の居場所はどこにあるのだろう、という気持ちを強くホールデンに感じるんですね。居場所がない寂しい気持ちというのは、特に若い、中高校生ぐらいのときは強烈に感じると思うのです。この本はそういう「俺の居場所はどこなのだ」という気持ちを書いているんだと思うようになったんです。

だから今の若い人も何かのきっかけでこれを読んだら、おそらく、自分の寂しさと同じものがここにある、と感じられると思うので、この小説はまだこれから先、読まれ続けていく可能性はあると思っています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事