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【三人閑談】
海賊が世界をめぐる

2019/09/02

海賊は人類共通の敵か?

桃井 いずれにしろ、世界全体のパワーバランスの変化と海賊のあり方はリンクしています。群雄割拠の時代にはいろいろな勢力が海賊行為をしてお互いを非難する。西洋史で言えば、古代ギリシアや中世の地中海などがそれにあたります。

一方、海域で覇権が打ち立てられると、海賊は排除の対象となっていく。古代ローマのパクス・ロマーナの時代になると、海賊行為は悪ということになる。キケロの言う「海賊は人類共通の敵」ですね。ローマだって地中海に覇権を広げていく過程では、いろいろな国を征服していったわけですが、それは正当化されてしまうのです。

もちろん暴力行為自体はよくないことですが、覇権が打ち立てられた後に言われる、絶対悪としての「海賊」は、ある意味でレッテル的なものもあるかなと感じます。

太田 東南アジアでは、海賊を絶対悪とみなす言説が、19世紀の初めから出てきます。オランダもイギリスも、植民地政庁という権力としてこの地に現れた時、決して覇権は伴っていないのに、「あらゆる民に害悪をもたらす海賊は根絶されねばならない」とか、「我々はここに平和と文明と法、秩序、自由な貿易をもたらすのであって、それを阻害するものは排除する」と言い出すのです。

それ以前の東インド会社は、自分たちの貿易を邪魔するライバルを皆、海賊と呼びますが、絶対的な正義を語るという発想はまずない。それが、19世紀初めになると、ヨーロッパ人たちはそういう言説を使うようになるのですね。

桃井 なるほど。19世紀初頭、いわゆる北アフリカの海賊はウィーン体制の下で禁止されるのですが、その理由は2つあって、1つは、キリスト教徒が北アフリカで奴隷にされているという人道上の問題です。

2つ目がまさに太田さんが言われた自由貿易の問題です。海という自由な場所における商業活動を脅かす海賊は悪であるということです。

この2つの考え方が明確に出てきたのが19世紀で、それはヨーロッパがいわゆる重商主義の時代から自由貿易の時代に移っていったことと重なるのかなと思います。

18世紀まで、なぜ北アフリカの海賊が温存されていたのかというと、有力国のイギリス、フランス、オランダがそれを認めていたからです。北アフリカに海賊がいれば、他の国がその地域に商業活動に入ってこられないので、自国の商業にとってはむしろ都合がよかったんですね。

包摂と排除

伊藤 近代になって公海という考え方が出てくることも自由貿易の考えと、リンクしていますよね。

桃井 そうですね。公海という考え方は、基本的にはスペインが新大陸での商業活動を独占したことに対して、後発国が反発したという背景があると思います。

現在の領海は、大砲が届くところまでは自分の海とするというところから来ていますが、それ以遠は誰のものではないとし、航行の自由という原則が確立していったのは、イギリスの覇権下の19世紀です。

18世紀まではオランダ、フランスとイギリスの覇権争いがかなり激しかったのが、自由貿易が奨励され、そのイデオロギーが定着していくんだと思います。

太田 実際には19世紀になっても、東南アジアではなかなか海賊は排除されないんですね。1820年代でも、ヨーロッパ勢力と現地の海賊との協力はよく行われます。シンガポールを取りに行ったイギリスも、明らかに海賊をやっているトゥモンゴンという地方領主を海賊鎮圧のために体制に入れるのです。

オランダも海賊と分かっているものを、海賊鎮圧の責任者として、オランダの海軍に入れて、マヨールという海軍の位を与え、最終的にはスルタンにも任命してしまう。

そのように海賊行為をしていることは分かっていても、あえてそこに任せて、金をかけない統治をするといった例はとても多かった。言説上は「海賊を排除する」という表明をしても、実際にはそうはせずに現地のシステムを上手く自分たちと融合させようとしたんですね。

桃井 なるほど、面白いですね。海賊を包摂して利用していく時期と、排除していく時期があって、それが必ずしも世界同時的に進んでいるわけではないんですね。

太田 地中海では、すぐに海賊を排除できたのですか。

桃井 地中海の場合、ヨーロッパの覇権が実質上かなり進んでいたので、北アフリカの海賊は19世紀初頭には鎮圧されました。比較的早い段階で包摂の時期が終わって排除に向かったのでしょうね。

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