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【三人閑談】
慶應ラグビーを語る

2019/06/25

上田昭夫の情熱

金沢 85年の優勝の後、低迷が続き、その後ちょうど慶應が変わっていく時期が、僕の学生時代の4年間の真ん中だったんですよ。僕の1、2年の時は対抗戦が6位とか7位でした。本当に初戦の青学に勝てないんです。明治、日体、筑波にも負け、とりあえず東大には勝って、そしてなぜか早稲田には勝てた(笑)。

生島 96年、森内(勇策)さんがキャプテンの時ですね。

金沢 全勝の早稲田になぜか低迷していた慶應が勝つんです。次の年も。

ただ、慶應は猛練習で上下関係も厳しいと言われていましたが、入ってみると違うなと感じましたね。林雅人さんが96年にフルタイムのヘッドコーチで入ってきて、オーストラリア流のコーチングを入れてきたんです。それで一気に変わっていったんだと思います。

そして、上田さんの情熱と、やや独善的にも見えるような遂行する力で、周りの意見をはね除けて改革を推し進めたので、僕が3、4年の時に花開いたんだと思います(4年時、1999年度に大学選手権優勝)。

上田さんの勝利に対する執念や、自分がこうと思ったことを貫き通す姿勢はすごく感じました。

廣瀬 僕の頃は現場は林さんがほぼやっていました。上田さんはたまに来て、「おい、ちゃんとやっているか」くらいの感じで、そんなに現場にいませんでした。

入部したらマットさん(林ヘッドコーチ)の最先端のコーチング理論がすごく楽しかった。前年はオーソドックスなラグビーで優勝したのに、その年はブランビーズというオーストラリアのチームを真似すると言って、ずっとボールを持ち続けてキックをしない攻撃をやっていたんですよ。もう全然違うラグビーで、それがすごく面白くて。

金沢 当時はあまり思わなかったんですが、自分が裏に回ると、やはり上田さんがいたから変わったんだ、と感じますね。学生は林さんのコーチングばかりに目が行くんですけど、上田さんは監督なのにちゃんとコーチングは預けていた。

でも、監督だから責任は自分が取るわけです。しかし、任せたら任せる。「すごくできた」なんて言ったら大変失礼ですけど、そういう方だったと感じますね。

生島 上田さんはいつも熱があり余っている状態で、それ以前にフジテレビでニュースを読まれていたのと同じ情熱を、慶應ラグビーを強くするために捧げていらっしゃったと思いますね。

1994年から2度目の監督に就任されましたが、週末だけのコーチが当然の世界に、フルタイムのコーチとして林さんを持ってきたということも画期的でした。

金沢 慶應では初めてのフルタイムコーチでしたね。

生島 上田さんはマネジメントの天才だったと思います。でも、幼稚舎から学んでいたお嬢さんが大学に進学する時には、「娘が大学4年の時に優勝できるよう、同級生でいい選手を勧誘しようと思ってるんだ」と真剣に話していたのが懐かしい思い出です。何かそういう、いい意味の子供っぽい情熱がすごくあった方でした。

上田昭夫さん(2003年、「三田評論」座談会にて)

「猛練習」からの転換

金沢 非常に泥臭かった猛練習の慶應のラグビーが変わってきたのは、松本啓太郎さんがキャプテンでいらっしゃった時(1995年度)くらいと聞いてはいます。いわゆる昔で言うと「回し」という、罰で走るみたいなものもあったんですが、そういうのも松本さんがなくされたと。

でも、やはり僕の頃もきつい練習はしていました。ただ昔との違いは、理由が明確になっていたことですね。昔は、試合が終わった後の練習で、例えばコーチが「今日はパスが悪かったので走れなかった」と言うと、「じゃあ、インゴールでタックルしよう」となるのが慶應だったそうです。「パスが悪かった、走れなかった」のに何でタックルするんだと(笑)。

そういうことが段々なくなってきて合理的になってはいきましたが、練習はメッチャきつくて。

廣瀬 きつかったですね。特に僕の時はボールキープをする戦略だったから、かなり走って……。

金沢 100周年の後にオーストラリアに行って、ハリケーンズとブランビーズの試合を見たら、ブランビーズが最初の5分くらい、ひたすらボールを回したらしいんです。それで林さんが、「これだ」みたいな感じになったらしいです。

生島 それ以前の猛練習についての考察は面白いですよ。80年代のメンバーで、いまや錚々たる経済人の方々は、大学でラグビーは終わりだ、という気持ちがあったからこそ、猛練習に耐えられたと言うのです。

「卒業後は仕事で勝負」というのが深層意識にあって、「これくらい耐えられないと、そのあともやっていけない」と思っていたんじゃないかと。だから会社に入ったら楽勝だったという人が多いです(笑)。

廣瀬 なるほど。

生島 慶應は80年代までは社会人の第一線でラグビーをやられた方はほとんどいなかったんじゃないですか。丸紅に行かれた村井(大次郎)さん(84年度FB)がジャパンに選ばれて、仕事が終わると、竹橋から麻布まで走って帰ったりしてトレーニングをしていたと話されてました。

それで、エディー・ジャパンの時の日本代表ディレクターだった稲垣純一さん(1978年卒)が、「これではちょっと寂しい、慶應を卒業してからも続けてほしい」と、サントリーのラグビー部をつくって選択肢の一つとして提示したそうです。後輩にもかなり声をかけていたようです。慶應の後輩にラグビーを続けてほしいという稲垣さんの情熱が、今のサントリー、そしてジャパンにつながったんだなと感じます。

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