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【三人閑談】
慶應ラグビーを語る

2019/06/25

  • 生島 淳(いくしま じゅん)

    1967年生まれ。スポーツジャーナリスト。早稲田大学社会科学部卒業。博報堂勤務を経て独立。ラグビー、駅伝、野球を主に手掛ける。著書に『エディー・ウォーズ』『慶応ラグビー「百年の歓喜」』等。

  • 金沢 篤(かなざわ あつし)

    1977年生まれ。パナソニックBKコーチ。2015-2018慶應義塾大学蹴球部ヘッドコーチを務める。選手時代のポジションはSO。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院健康マネジメント研究科修士課程修了。

  • 廣瀬 俊朗(ひろせ としあき)

    1981年生まれ。ラグビーワールドカップ2019アンバサダー。慶應義塾大学理工学部卒業後、東芝へ。2007年日本代表初選出。12年代表主将。ラグビーワールドカップ2015日本代表。ポジションはWTB/SO。著書に『なんのために勝つのか。』。

1984、85年の記憶

生島 昔、慶應の野澤武史君(1999年度大学選手権優勝時FW、現山川出版社取締役)が、「僕は慶應右翼ですから」と言っていたんです。それで言えば僕は「早稲田右翼」(笑)。子供の頃から早稲田しか受けないつもりだったんですが、高校2年の時、松永敏宏さんがキャプテンの代(1984年度)の慶應を見て、受けようかなと思いましたね。

慶明、早慶戦に勝利し対抗戦優勝。そして大学選手権決勝で、スローフォワードによる「幻のトライ」で同志社に惜敗した試合が非常に感動的でした。そして翌年、僕が高校3年の受験の時に慶應が日本一になるわけです。

金沢 すごい時代でしたね。

生島 結局は早稲田に進みましたけど、この時の思いがずっと僕にはあった。大学時代に放送されたドキュメンタリーを見ても、すさまじい練習を泥だらけになってやっている。そんな姿に、どうしてあのスマートな慶應の人たちがここまで必死になってやっているんだろう、という疑問がずっとありました。

そして、日本一の前後のメンバーの人にお話をお伺いし、『慶応ラグビー 「百年の歓喜」』(2000年)という本を書いたんです。僕が高校時代に惹かれたものは何だったんだろうと考える中で、やはり、上田昭夫という人の存在はものすごく大きかったんだなと感じましたね。

お二人とも上田さんの薫陶を受けていらっしゃいますね。

金沢 そうですね。僕が慶應ラグビーに初めて触れたのも1984年頃です。自分は小学生でしたが、父親も慶應出身でラグビー好きで、やはり〝魂のタックル〟に憧れましたね。

田代博さんというすごく小さいフランカーの方のタックルがカッコよかったから、その頃バドミントンのラケットに「6」と書いていたんです(笑)。この頃から慶應でラグビーやりたいなと思っていましたね。

慶應のメンバーは全部言えました。早稲田も何人か覚えていますけど。

生島 橋本(達矢)、五所(紳一)、中野(忠幸)の第一列ね。

廣瀬 僕は、84、5年は3歳くらいで覚えていない(笑)。創部100周年(1999年)に向けた頃から慶應が強化を進め、2回目の監督(総監督)に就任された上田さんから、高校生の時に突然電話がかかってきてびっくりしました。最初は「誰ですか」みたいな感じだったんですが、「慶應ラグビーの上田だ」と言われて。

もともと早稲田に行こうと思っていたんですけど、その上田さんの一声でガラッと慶應に行きたくなりましたね。

生島 上田さんからはどういう言葉で口説かれたんですか。

廣瀬 「待っているよ」みたいな感じです。「一緒に強くしよう」とか。手紙も突然来たり、そういうところは上手でしたね。

その頃(2000年入学)の慶應は泥臭いというより、華やかなメンバーが揃っていた印象がありますね。

金沢 國學院久我山から、ずいぶん選手が来ていたね。

廣瀬 そうですね。牧野(健児)さんとかもおられました。晋作さん(高田)も久我山でしょう。

生島 上田さんは、ほかの大学志望だった高校生を慶應に変えられる力があった。ずいぶん仕組みを変革した方だと思うのです。

まず、上田さんはスタイルから変えた。学生服からブレザーに変わったのはちょっとショックでしたが、それが国際的なスタンダードなんだと上田さんは考えていました。リクルーティングについても、湘南藤沢キャンパスのAO入試を上手く活用したのは画期的でしたね。

金沢 そうですね。

生島 プレーだけでなく、仕組みで勝とうとする発想が革命的でした。

でも、上田さんの先輩にあたる中嶋章義さんという、カネボウの最後の社長を務められた方から、「生島さん、慶應のラグビーのことを書くのなら、猛練習は僕と同級生の藤賢一(とうけんいち)君(1972年度主将)が始めたんだと記して欲しいんです」とお話を頂戴したんです。

上田さんはそうした歴史を踏まえつつ、仕組みを変え、こうして金沢さんや廣瀬さんのような人材を慶應に残していったんだなと思います。

1985年度 日本一を決めたトヨタ戦(1986年1 月15日、国立競技場)
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