【三人閑談】
庭を愛でる
2019/05/24
中国文化との対比
ライカーズ 日本と中国もすごく違うと思うんですね。中国の庭に行って思うのですが、中国は非常に間を埋めたがるし、左右対称が好きで、偶数好きです。同じ東洋の中でも日本の特殊性をあらためて感じます。中国から入ってきた文化を日本人がいかに日本的につくっていったのかと思うと面白いですよね。
日野原 あらゆるジャンルがそうですね。水墨画が一番典型的です。ヨーロッパの人が日本を見ないで想像の世界で日本的なものをつくっていたのと同じで、日本人も実際に中国に渡った人はほとんどいなかった。中国から伝わってきたものだけを見て、それを表面的に模倣して想像しているんですよね。
中国にある、大きな岩のような山や大きな川を見たことのない日本人が、絵を見て、日本ではあり得ない世界を表面的に真似るので、空間の把握の仕方が全然できていないんですよね。
関 空間の概念としてはたぶん、中国は西洋のほうに近いですよね。
日野原 その通りです。
関 日本の文化のコアみたいなものがあって、どんな外来文化を持ってきても変えていく力があるというか、変わらない普遍的なものがあると思うのですが、それが何なのかなと思っています。
日野原 一言で言うと、過去のものを捨てられないのでしょうね。ある意味、ヨーロッパや中国の場合、大陸ですので、何かからの攻撃や支配を受けたときに、地続きの別の土地に逃げるということができる。しかし、日本の場合は、言ってみればそうやって逃げてきた人たちが最後に行き着く場ですので、逃げ場がどこにもない。「逃げてきた者同士、ここの中で皆一緒に上手くやっていくしかないよね」というのが、日本の歴史だと思うんですよね。
もともと神道のような自然崇拝があるところに仏教が入ってくると、これが大陸だったら文化の移動が起こると思うのですが、移動できないので一緒になるしかない。神仏習合で、神と仏を一体化させてしまう。あるいは中国の禅宗の文化にしても、従来の日本的な文化と融合して独自の改造をしてしまう。ガラパゴスと言えばガラパゴスですが、それでずっと来ていますよね。
ライカーズ そうですね。また日本は椅子文化ではない一方、中国は椅子文化なんですね。なんで日本では椅子が普及しなかったのかと考えると、やはり農耕民族だからなのではないか。自然が豊かで、川に行けば魚が釣れる。雨も多いし、草木は育つ。そういう環境がいろいろな形で目線にも現れているのではと。
床に座るのと椅子に座るのとでは目線が違うので、こういうところも庭の造り方に影響するのではないかと思います。障子を開けると、濡れ縁の向こう側に庭が見える。それはたぶん、椅子文化にはない世界でしょう。そういうことも日本独自の庭園・風景をつくり上げていったのではないかと思うのです。
日野原 確かにそれもあるかもしれませんね。
絵画に表れる世界観
関 寺社の日本庭園はもちろん仏教思想の反映だと思いますが、私は宗教以前に何が文化の違いを形成したのかを考え、色々文献を当たったのですが、空間論には宇宙軸という考え方があることが分かりました。
「森の文化と砂漠の文化」という考え方があって、日本は森の文化で、西洋は砂漠の文化です。砂漠では方位を確認するために、まず北極星を発見したんですね。北極星というのは宇宙の固定点なので、北極星と地球の地軸を結んだものを宇宙軸と定め、そこから固定的な世界観が生まれていったと。それに対して日本は、太陽の軌道の東西軸を宇宙軸とした流動的な世界観で、そこからアニミズムや多神教的な考えが生まれた。
西洋ではここから一神教が生まれ、絵画においても一点透視図法のように固定的な世界観が生まれました。日本の場合、例えば「洛中洛外図屏風」のように、画家が視点を移動させながら描いていく。庭でも回遊式庭園のような形式が生まれました。
生命は巡り、また生まれ変わる輪廻転生という考え方、円環思想はインドに由来すると思われますが、これは日本の空間概念を支配しているように思います。一方、西洋は直線崇拝で、時間もリニアなものとして認識されているようです。
日野原 一点透視図法というのはまさしく絵を描いている人間の目から見た世界で、非常に人間の個の意識が強い。一方、従来の日本の絵画の描き方は、人間の目から見た世界ではなくて、人間を俯瞰的に見下ろす別の視点から捉えていますね。
「洛中洛外図」ですと、フラットに町の様子全体を捉えているという意識がありますので、やはり見ている世界、自然に対する意識がだいぶ違うのではないか。
関 それは浮世絵にも表れているのですか。
日野原 広い意味ではもちろん表れていますね。人間の目から見たまま写実的に描くということが、なかなかその通りにはいかない。浮世絵でも西洋の絵画の技法を取り入れたケースはありますが、やはり表面的な理解でとどまってしまって、理論として理解せずに、「もうそこでいいや」と、絵としてまとめてしまっています。
関 日本庭園はとても抽象度が高くて、芸術というか、思想の反映なんですよね。それに対して、イギリスの庭は使われるための庭で、常に機能が意識されている。
私がイングリッシュガーデンを勉強したときに、バブル・ダイアグラムというのですが、空間をすべて機能で埋めていくということを教わりました。それに対して日本には「間」という、何も機能のない空間がありますよね。
ライカーズ 機能に執着するのは砂漠の文化に通じるのではないでしょうか。要は灌漑(かんがい)をしないと水が得られない。だから、西洋人は噴水にすごく執着があって、バビロンの空中庭園も噴水だし、チボリの庭も噴水です。
もともと人間は食べるために植物を育てたという部分があって、それが長い時間をかけて、「愛でるための庭」という部分も出てきたと思うのです。機能の部分というのは、そういう切実な環境の違いの表れなのではないかと思います。日本はやはり自然が豊かな国なんですね。
日野原 そうですね。庭の機能という意味でちょっと面白いのが、江戸時代の劇作者の滝沢馬琴です。その日記によると、あくまで普通の一軒家の庭ぐらいの規模ですが、庭造りを結構しています。
その際の要素の1つに家相学というものがあるのです。今で言う風水のようなもので、家族に病人が出ると、水が悪いということで池を埋めたり、この場所、この方角にはこういう木を植えてはいけないというものです。ただ、それは機能と言えば機能ですが、信心や迷信に近い感覚ですよね。
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