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【三人閑談】
庭を愛でる

2019/05/24

  • 関 晴子(せき はるこ)

    ランドスケープ・アーキテクト、STUDIO LASSO LTD主宰。1983年慶應義塾大学文学部心理学専攻卒業。ロンドンにて長くランドスケープ・アーキテクトとして活動。英国チェルシーフラワーショー等受賞多数。2014年より東京造形大学客員教授。

  • ライカーズ 玉恵(ライカーズ たまえ)

    西洋美術、デザイン史家・アドバイザー。1987年慶應義塾大学商学部卒業。英国サザビーズ・インスティテュート/マンチェスター大学大学院:西欧美術史修士。元米国公認会計士。Zebra Prescot社主宰。香港在住。

  • 日野原 健司(ひのはら けんじ)

    太田記念美術館主席学芸員。2001年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。専門は江戸から明治にかけての浮世絵史。著書に『浮世絵でめぐる江戸の花──見て楽しむ園芸文化』(共著)等。

江戸の植物の楽しみ方

ライカーズ 日野原さんは江戸時代の浮世絵がご専門ということですが、大名はともかくも、江戸の長屋に住んでいた庶民の方が一体どのように園芸をやっていたのか、想像がつかないんです。

日野原 日本の場合、庭の歴史は、それこそ古代までさかのぼります。その頃はやはり富裕層、権力層にとっての庭ですね。平安時代には『作庭記』という、庭の造り方を記した書物が作られています。貴族たちの広大な庭をどのように造るかというものです。

室町時代になると中国から禅宗、新しい仏教文化が入ってきて、いわゆる枯山水(かれさんすい)の庭が出てきます。さらに江戸時代に入ってからは大きく分けて2つの流れがあります。

1つはやはり富裕層。即ち大名や公家を中心とした広大な庭です。特に江戸の場合、大名の屋敷が江戸の町の各所にありました。なかでも別邸の役割を担った下屋敷ですね。大きな池がある広大な自然の庭を造り、その中を散策して楽しむ回遊式の庭園が造られました。

 もう1つが庶民、町民ですか。

日野原 そうです。庶民たちの中にも、18世紀、19世紀と徐々に経済力が増していくに従って、園芸として植物を自分たちで栽培することがどんどん拡大していきます。

また、庶民たちは、自分で植物を育てることとは別に、例えば桜の名所や梅の名所に出かけていました。特に梅は、裕福な町人が自分の屋敷に植えて庭園を造り、それを庶民たちに開放して、庶民たちがその季節になると足を運んで楽しむということがありました。

庭を造る側としては当然、自分の庭ですが、庶民たちにとっては公共の庭のような感覚ですね。

ライカーズ ヴァン・ゴッホも真似た、有名な亀戸梅屋敷もやはり、裕福な町人の家にあった梅だったのでしょうか。

日野原 そうですね。他にたくさんの植物が植えられているところは、お寺や神社です。また、桜の名所は、8代将軍徳川吉宗が庶民たちの憩いの場として隅田川沿いとか、品川の御殿山、あるいは飛鳥山に造られました。飛鳥山は、今でも多くの花見客が訪れていますが、もともと幕府によって整備されたのです。

庶民の娯楽の1つとして、そういった場所で花見をしたり、あとは、裕福な町人も自分で庭を造って梅とか季節の花を植えたりして、それを一般の人たちにも開放するというようなこともあったわけです。

 町人も庭を造るようになったということですね。

日野原 そうですね。主に19世紀になってからですが。今でも都立庭園の向島百花園が墨田区にありますが、もともとは佐原鞠塢(きくう)という町人が教養のある文化人たちとともに庭を造り、いろいろな文芸活動も楽しんでいました。

江戸時代の初期は、やはり、大名家や将軍家などを中心とする富裕層が広大な庭で植物を育てていましたが、徐々に文化人的な富裕層の町人の中でも、いろいろな植物を自分たちで栽培したり、それを売買したりするようになったのだと思います。

もともと植木屋という職業がありました。それは当初は、大名家からの仕事の依頼を受けて大名庭園などを整備する仕事だったのですね。

 庭園をメンテナンスするためですね。

日野原 そうです。その植木屋さんから、徐々に庶民への販売が広まっていったのでしょう。

ある限定された時期に流行した植物もあります。アサガオなどは典型です。変化アサガオといって、ちょっと変わった形の花を自分で育てて「自分はこれだけ変わったアサガオの花を咲かせた」と、友人たちの間で競い合うんです。そうやって見せ合って品評会のようなものをする。

カラタチバナやフウランなども高値で転売されて、現代のお金で何十万から何百万ものお金になるというようなことが起きています。

それをやっていたのは、比較的生活に余裕があり、余暇を楽しむ時間のある裕福な武家や町人たちですね。時代にもよりますが、園芸に限らず、文芸、和歌、俳諧、あるいは絵画など様々な芸能を通して、身分を超えて武家と町人が交流し合う場というものがありました。園芸は文化人的な趣味としての要素もあったのです。

それとは別に、花は好きでも、そこまで本格的ではなく、植木鉢に植えられた花を植木市で買って、気軽に花を楽しむ人たちもいました。植木鉢の生産の増加というものも大きかったと思うんです。

ライカーズ 鉢に凝って比べっこをすることもあったようですね。

日野原 鉢植えは、それこそ四季折々、お正月ですと福寿草の鉢植え、春だとサクラソウの鉢植え、などがありました。自分で買いに行くだけではなく、てんびん棒を担いだ植木売りが町中を歩いていて、とても気軽に買うこともできました。日常の娯楽の感覚で花や植物を入手し、それを実際に育てることが楽しみとして成り立っていたのですね。

浮世絵に描かれる植物

ライカーズ 珍種などを育てるのが流行ったとおっしゃいましたが、その話を聞いていて、有名な17世紀初頭のオランダの、チューリップバブルを思い出しました。

オランダのチューリップバブルは、お金持ちから洗濯女まで球根を買ったと言われるぐらい、誰もが狂ったようにチューリップを買った。それが金融商品取引のベースになったみたいに言われていますね。

日野原 さすがに日本ではそこまでの社会的な変化はなかったと思いますが、やはり高値での売買が行われることもあり、幕府から禁止されることもあったようです。

一方で、そういった珍しいアサガオを絵にし、印刷物にして出版するようなこともまた同時に行われているんです。

ライカーズ まさにそこで浮世絵に描かれる。

日野原 ええ。当時、木版画の浮世絵の技術が高かったので、そういった珍しい植物を記録し、それを印刷、出版物として残す。園芸だけではなくて、絵画、美術の方面にも影響を与えたという意味では、影響力があったのかなと思います。

ライカーズ 例えば円山応挙(まるやまおうきょ)には、すごく精密に植物を観察したような、有名な絵がありますよね。

オランダのチューリップ騒動の時期もやはり同じようなことをやっていて、チューリップ以外にも昆虫などを精密に描いた絵があるので、似ている感じがします。花を愛でるというだけではなく、科学的な探求心といったような側面もあったのかなという気がするのですが。

日野原 「描かれた花」ということで言えば、もともと日本の絵画の歴史というのは、いわゆる花鳥画が非常に主要なテーマになっています。花だけではなく松や梅などの樹木、あるいはそこに飛んでいる鳥が絵として古くから描かれていて、江戸時代も画家たちの主要なテーマの1つでした。その流れの中で、特に大名たちが、いわゆる博物学や植物学というものに大変興味を示したんですね。

博物学、あるいは本草学というのは、まず、日本各地にどういう植物があって、それがどういう名前であるか、地域によって違う名前だけど、どこまで種類として同じなのかということを見極めていました。

花に限らず、様々なものを科学的に調査するというようなことが、18世紀に入ってから大名たちの間で流行しました。その中で本物そっくりに記録した図鑑のような草花、そして鳥や魚なども、画家たちに描かせるということがよくあったのです。

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