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【三人閑談】
庭を愛でる

2019/05/24

ガーデンを共有する

ライカーズ また、ロンドンには例えばハイドパークなど広い公園が多い。ハイドパークはもともとヘンリー8世のお狩場だったのが17世紀、一般に開放されてパークになったようです。ハイドパークはパークと言うものの、小さなガーデンの寄せ集めみたいなところがあります。

 ロンドンの8つのロイヤルパーク(王立公園)は、もともと王族の所有地を市民に開放したものです。ロンドンは世界の5大都市の中でも緑地の面積がとても多いのですが、私有地だったところを一般に開放したり、コモンスペースとして共有している緑地がすごく多い。

牧草地や耕作地を含んだもっと広い範囲で言うと、パブリック・フットパスというものがあります。広大な農地のフットパス(人が歩ける小径)を、通路として一般に開放しているのです。私有地でありながら、そこを通ることで風景を共有できるシステムとも言えますね。

また、私が一時住んでいたノース・ロンドンのフェアヘーゼルガーデンという街区では、50ぐらいの建物が1つの広大な庭を囲んでいたのです。その庭はコミュニティガーデンになっていて、その庭を共有することで、様々な人種・階層・年齢の人たちが植物を育てたり管理をしたりしながらコミュニティをつくり、共通の意識を持てる。これはすごくフェアで面白いシステムだなと思いました。

日本もこれからコンパクトシティ化に向かって都市の再編が行われていくなかで、空き地がどんどん増えていくと思います。その土地をどのようにシェアしていくかということが、今後大きな課題になっていくように思います。

日野原 そうかもしれませんね。

 これは日本に帰ってきて1年住んだ限りの感想ですが、ヨーロッパのほうが身近に花があるのではないかと思うんです。気軽にお花をプレゼントしたり、毎日ダイニングテーブルにささやかなお花を活けるような文化がある。庶民的、日常的なレベルで花が身近にあるような気がするのです。それは心の豊かさとかゆとりの問題なのかもしれないのですが。日本の場合は、新しくできた住宅は外構がコンクリートで固められていて、木を植えるスペースさえないようです。江戸で発展した園芸文化は今、どのように続いているのでしょうね。

日野原 植木市や縁日は、今でも入谷の朝顔市など、江戸から続く園芸文化として一部で残っているとは思うのですが、自分の庭に植木屋さんに入ってもらって庭を整えて、ということは、どんどん廃れていっていますよね。

私の実家の近所でも、立派な庭のある家がありましたが、この前、その庭を造らせた方が年配で病院に入ってしまい、息子さんが庭を全部更地にして半分を駐車場にして、半分は自分の家を建ててしまいました。

一方、鉢植えを買って並べるという文化は、東京の東側、隅田川を渡った江東区とか墨田区などの下町には残っているようです。玄関の周りに鉢植えをずらっと並べて、どこからどこまでが自分の家の敷地なのだろう、という光景は見かけますね。

ライカーズ 江戸時代の長屋の前に置かれた植木鉢は、通る人皆がそれを共有できる、ある意味、とっても民主的なものでしたね。

 私が渡英する直前、20年ぐらい前に日本でイングリッシュガーデンが流行りました。特にバラへの憧れが強かったと思うのですが、日本は湿気の多い気候なので害虫の被害を受けやすく、バラを育てるのが難しかった。それで少し違う形に変わってきました。

イギリスではその後、モダンブリティッシュ・ムーブメントと言われる動きが起きたんですね。それはダッチ・ウェイブと呼ばれる、生態環境に合った在来種のペレニアル(多年草)を主とした庭で、毎年刈り取ったり移植したりしなくてもよい、手の掛からないローメンテナンスの庭です。コテージガーデンのドリフト・プランティングに対して、マス・プランティングという、一見、自然なメドウ(草原)のようなスタイルが今、主流になってきています。

このコンセプトに従うなら、イギリスの植物を使わなくても、日本のオリジナルの種で「イングリッシュガーデン」を造ることができます。これは日本の生態系に合った造園の手法で、無理のない形ではないでしょうか。

「間」が主役の日本の庭園

 先ほどヨーロッパの庭園のほうが自然をコントロールしているというお話がありましたが、日本の庭園もある意味では設計者の意図がすごく強いように思います。

例えばステッピング・ストーンという踏み石がありますね。その踏み石1つにしても、設計者が人々をどういうふうに歩かせて、どこで庭を見せるか、全てをコントロールしていますね。樹木も意図的に刈り込んで形を作っています。

現存する日本庭園には、日本の空間の特質が凝縮されていますね。そして、空間に対する考え方が、西洋のものとは此岸と彼岸ほど違うように思います。

ライカーズ 「間」の取り方が違いますよね。いろいろ抜くというか。

 そうですね。日本庭園では「間」が主役で、植物は脇役なんですね。「間」をつくるというのは、空気感、雰囲気をつくるということかもしれません。植物は脇役であって、それは石でもいいわけですが、要するに要素間のバランスが重要で、物と物との関係性、テンションやハーモニーが「間」に表現されるのだと思います。それに対して、西洋の庭では植物などのエレメントそのものが主役なんです。

ライカーズ 例えば陶磁器や漆器でも、日本の作品は「間」とか空間が多いですが、海外向けに出された作品には、わざと外国人が好きなように、間を埋めていったんですよね。

 私がロンドンで庭を造るときに経験したことですが、イギリス人に施工をお願いすると、「間」を全部埋めたがるんですよ(笑)。隙間があると落ち着かないようです。これは空間に対する感覚の違いなのだな、と思いました。

日野原 これは、あらゆるジャンルに日本の造詣の感覚として「間」というものがある。ただ、意識的に「これくらいの間を空ける」と規則に基づいてやっているのではなくて、かなり感覚的なものなんですよね。

ライカーズ そうじゃないと逆に、日本人は落ち着かない。

日野原 海外で活躍されている現在のアーティストや職人さんでも、自分は日本的なものを作っている意識が全然ないにも拘らず、「すごく日本的だ」と言われて初めて、「ああ、自分の空間の取り方や作り方がそう見られるんだ」と気づく方は多いです。

 それは私もありました。最初、イングリッシュガーデンを学ぶ学校に入って、イングリッシュガーデンを設計しているつもりなのに、すごく東洋的だと言われて。無意識に3点でバランスをとっていたりするところがあるんです。

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