【三人閑談】
東京タワーを見上げて
2019/04/25
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近藤 正人(こんどう まさと)
株式会社テレビ東京常務取締役(スポーツ局、五輪・技術基盤担当)。1980年慶應義塾大学文学部卒業。同年、東京12チャンネル最後の新入社員として同社に入社。
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前田 伸(まえだ しん)
株式会社東京タワー代表取締役社長。1987年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。銀行勤務を経て、2005年日本電波塔株式会社(現東京タワー)代表取締役社長に就任。株式会社マザー牧場代表取締役社長。
五重塔から東京タワーへ
前田 東京タワーは昨年末に「還暦」を迎えたのですが、東京タワーがなぜ建ったのかと言えば、電波塔が必要になったからなのですね。昭和28(1953)年にNHK、日本放送がテレビ放送をスタートさせ、その2年後にTBSも開局します。その後も次々とテレビ局の開局が控えている中、首都圏の平野の中心部にどうしても電波塔を早くつくらなければということでした。
近藤 複数の候補地があったようですね。
前田 上野公園、芝公園、それから私の両親(前田久吉夫妻)から聞くところでは、今のニューオータニの場所も候補地だったようです。
今、東京タワーが立っている場所は紅葉山(もみじやま)と言われていて、戦前、紅葉館(こうようかん)という社交場がありました。明治29(1896)年に福澤先生が「気品の泉源、智徳の模範」で有名な「慶應義塾の目的」という演説を行ったところです。そこが空襲で焼失し、戦後その土地が空いていたのです。
隣地の増上寺も、戦災でほとんど焼失してしまって、梵鐘と日比谷通り沿いの、今、国宝になっている門くらいしか残っていなかった。相当の復興資金が必要ということで、紅葉館のあった土地と増上寺さんの敷地の一部を久吉が購入させていただいたのです。
最近、増上寺さんの大僧正と、今、檀家総代である徳川ご本家の方、お二人からもともと増上寺にも五重塔があって、それが赤く輝いていたと言われました。
近藤 それは面白いですね。
前田 昔、東海道を上ってくると、最後の品川宿から江戸城への中間地点が徳川家の菩提寺、増上寺で、そこの五重塔はランドマークでもあったそうです。それも戦災で失われた。
そう考えてみると、東京タワーって、五重塔のようなものなのかなと思いましてね。大僧正と徳川さんから、「大事にしてくれよ」と言われました(笑)。
偶然か必然か分かりませんが、現在の場所にタワーが建つことになったのですね。
望月 私は中学校が正則中学という芝公園の奥にあるところで、そこまで三田から通っていたんです。ですから、毎日のようにあのあたりの小山の道を歩いて帰ってきていたんです。当時は、このあたりに将来そういうものが建つということも全然知らなかったですし、あそこは人がめったに通らない場所で、通るのは学生ぐらいでした。
中学2年のときだったか、大きな財布があのあたりに落ちていましてね。友達と3人で「これはすごいな」と話していたら、おじいさんが来て、「ああ、俺のだ、俺のだ」と言って持っていっちゃった(笑)。あそこらへんは林というか小山でしたね。
前田 東京タワーの隣地の六本木寄りで、海軍の水交社(すいこうしゃ)があったところは今、東京メソニックビルが建っていますが、そのあたりが一番小山の高いところです。
昭和32年頃に東京タワーの工事を始めたときも鬱蒼とした小山だったと言われていますね。
近藤 望月さんは東京タワーがだんだん建っていったときは、どのように感じられていましたか。
望月 東京タワーが建ったのが、私がちょうど大学卒業の年ですが、最初は一体何ができるのだろうと思っていました。皆が、「タワーができる、できる」と言うのですが、3分の1ぐらいできたところで、しばらく、上の部分ができなかったんです。
高い塔ができて「地震でも来たら危ないな」とか、「台風も怖いな」、と不安な気持ちが先立っていました(笑)。でも、実際にできてみると、そんなことは全く忘れてしまって、「すごいな」という印象しかなかったですね。すぐにでも行ってみようと思って行くと、人、人、人でびっくりしました。
前田 完成直後は大行列でしたから。
望月 人が多くて。ぐるぐるぐるぐる切符を買う人が並んでいて。バスプールには、はとバスがたくさん止まって次から次へバスが来て、4、50人の団体客がいっせいに降りてくる。皆で「またにしよう」と言って帰りました。実際に昇ったのは2、3年後でしたね。
前田 それまでは昇らなかったんですね。
望月 そうなんです。私の弟はごく最近まで昇ったことなかったと言っていました。何か見慣れてしまっているんですね(笑)。
印象的だったのは、鹿児島から三田にお嫁さんに来た人がいるのですが、お母さんの具合が悪いというので、しばらく帰ってこなかった。その人がお母さんが亡くなられて戻ってきて、東京タワーを見たときには涙が出たと言っていました。やっと東京に来られたというのでね。
東京タワーを見て感激する人というのは多いんですね。
東京タワーに1番近い会社
近藤 僕は、生まれたのが東京タワーの約1年前ですから、だいたい同い年なんですね。
中等部に入学した頃、綱町パークマンションという、日本の億ションのはしりがちょうど建設を始めるぐらいのときでした。その頃は中等部の屋上から東京タワーがはっきりと見えて、「近いなあ」といつも感じていました。
ところが、東京タワーに最も近い会社に就職することになりまして(笑)。私は「東京12チャンネル」時代の最後の新入社員なんです(81年テレビ東京に社名変更)。入社当時の社屋は芝公園4丁目という住所でしたが、前田さんのところにお借りしていた形になるんですよね。
前田 はい。完全に1棟をお貸ししていましたね。古い設計図を見ても、日本教育放送の本社屋と、創設のときの名前で敷地内に建設されています。
近藤 これは全くの噂かもしれませんが、当時、東京オリンピックを控えて、ホテルにすることも考えられていたとお聞きしたことがあるんです。それが途中でテレビ局になったと。
前田 きちんと聞いたことはないのですが、建物の設計図にホテルという名前が残っているものもありますね。
近藤 私が入社したのは1980年ですが、当時、朝に子供向けの生放送で「おはようスタジオ」という番組をやっていまして、このオープニングが必ず外で始まるんです。いつもタワーからカメラを撮り下ろすと司会者がいるという絵なので、東京12チャンネルは、東京タワーの中にあるんだと思っていた人もいたようです。
80年というのは、春に東京タワーの敷地内にシネマ・プラセットという仮設のテントの映画館ができて、ここで鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたんですね。これが大ブームで、タワーの駐車場に長い列ができていたのを記憶しています。
前田 東京12チャンネルに小倉智昭さんがいらした時代ですよね。朝の番組か何かをやっていらした。
近藤 小倉智昭さんはちょうど僕と入れ替わりなんで、社員としてはかぶっていないんですね。

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望月 良一(もちづき りょういち)
有限会社望月洋服店会長。1958年慶應義塾大学経済学部卒業。三田通りで長年慶應の学生服等を扱う望月洋服店を経営。2001~2006年まで三田商店街振興組合理事長を務める。