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【三人閑談】
浅利慶太さんを偲んで

2018/12/17

日下武史との信頼関係

岡本 浅利さんが亡くなって、劇団四季の創立メンバーでご存命なのは照明の吉井澄雄さんだけでしょうか。

吉田 吉井さんだけですね。

岡本 やはりなんといっても四季は日下さんと浅利さんという2大柱がいて、はたから見たら、性格が違うから上手くいくのか、お互い補い合うような関係かなと勝手に見ていたんですが、実際のところはどんな感じだったんでしょうか。

吉田 お互いに深く信頼し合っていたと思います。浅利さんの演劇の理想型の1つが日下さんの演技でした。若い俳優たちに「日下を見ろ」と常に言っていましたし、彼の演技の中に、劇団四季が目指す演劇の姿があったのだと思います。

日下さんも、浅利さんのことを非常に信頼されていました。ご自身の演技の方向性を定めてくれる、唯一無二の演出家だと感じておられたと思いますね。

岡本 どこかで浅利さんがお書きになっていたと思うのですが、本来であれば演出が日下さんで、役者が浅利さんのところを、何かのきっかけでそれが変わったと。

吉田 高校時代に、サローヤンの『わが心高原に』を早稲田と慶應の合同演劇発表会で上演することになったのですが、演出を担当するはずの日下さんが、家庭の事情で参加できなくなった。そこで、ピンチヒッターとして浅利さんが起用されたそうです。

これが、浅利さんの処女演出作品です。この舞台を加藤道夫さんがご覧になり、「ハイスクールニュース」という塾高の学生新聞に劇評を書いてくださった。浅利さんの演出についても触れていて、非常にシャープだと評価されたそうです。浅利さんは、これが演出家を志した出発点だと言っておられた。

岡本 私が初めてお会いしたときの第一印象が、あの世代の方にしては、意外に身長が高いなということです。役者をされていてもご立派だったかもしれませんね。

吉田 1つ間違えれば、大叔父だった二世左団次さんのところに養子に取られ、歌舞伎役者になっていた可能性もあったそうですね。お父上も築地小劇場の創立同人の一人で、演劇とは関わりの深い家柄でした。

岡本 浅利鶴雄さんですね。

浅利さんの残した遺産

北里 浅利君は芝居の感想を、少しでも聞きたいようなところがありましたね。「どうだった?」と聞いてきて、「今日はこれとあれがよかったね」と言うと、嬉しそうな顔をしてね。懐かしいですよ。残念でしょうがない。

ともかく彼のことは好きでしたね。1年違いだけれども、先輩に対する気遣いもありましてね。大したもんですよ。

吉田 ご逝去されて以来、いろいろな方から「浅利さんが残されたものは何ですか」という質問を受けるのですが、私は最大の遺産は、「劇団四季」という組織そのものだと思います。これを維持し、次の世代に継続していくことが自分に課せられた使命だと思いますし、そのためには、浅利さんが掲げてきた理念を守り続ける必要があります。

これからも海外ミュージカルの新作上演は続けていきますが、同時に、オリジナル作品の開発も進めていかなければいけないと思っています。この仕事は、1300人いる劇団員の中から才能ある人を見つけて育成する方法と、日本の演劇界で活躍している外部のスタッフたちとの協業の、2つの方向で進めていきたいと思います。

今年6月に開幕したストレートプレイ『恋におちたシェイクスピア』は、青木豪さんという外部の演出家にお願いをしました。日本人の外部演出家が四季の舞台を演出するのは実に半世紀ぶりで、1967年に福田恆存さんが『ヘンリー四世』を手掛けられて以来です。

岡本 シェイクスピアの劇の台本は、『ヴェニスの商人』などは福田恆存訳でやっていましたね。

吉田 四季で上演したシェイクスピア劇は、ほとんどが福田恆存さんの訳です。

岡本 浅利さんは、テレビ・メディアというものに対して、テレビに出ると演技力が落ちるというような感じで、どちらかというと否定的な感じだったと思うんですね。

吉田 テレビそのものは嫌いではなかったと思いますよ。ただ、テレビドラマや映画のスクリーン上の演技と、舞台俳優の演技はまったく別のものだとはおっしゃっていました。舞台の俳優がテレビドラマに抜かれてしまうことは、とても嫌がっていましたね。初心を貫き、舞台で生きなければ駄目だと。

1300人いる劇団員の中には、若い人も多く、浅利さんと一緒に仕事をしたことがない人たちが、すでに4割を占めるまでになりました。この人たちに、四季という組織の伝統と理念をしっかりと伝えていくことが非常に大切だと思っています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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