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【三人閑談】
浅利慶太さんを偲んで

2018/12/17

『キャッツ』という転機

岡本 やはり劇団四季の転機というのは『キャッツ』でしょうか。

吉田 そうですね。先ほど申し上げた3つの理念のうち、「舞台からの収入だけで経済的に自立すること」が、ここからは完全にできるようになったと思います。

北里 『キャッツ』は何年でしたか。

吉田 83年です。現在の都庁周辺の西新宿の遊休地に、初めて専用劇場を建ててロングランに挑みました。当時、既存の劇場は各興行主に対して月単位で劇場を貸していたので、長期公演が不可能だったためです。それと同時に、横浜のあざみ野に稽古場も建設した。キャッツシアターはテント型の仮設劇場でしたが、恐らく、この両方の実現のために相当な借り入れをしたと思います。

結果、『キャッツ』は大成功した。浅利さんから、「失敗した時のために自分の生命保険を確認した」という逸話を何度も聞いたことがあります。まさに乾坤一擲の大勝負だったと思います。

北里 『キャッツ』も彼が招待してくれました。帰るときに「どうだったか?」というような顔をして、ちょっと話したりしましたね。

吉田 私は87年に入団したので、『キャッツ』東京初演の話は、どれも先輩方から聞いたものです。開幕した83年は私が慶應に入学した年で、『キャッツ』のテレビコマーシャルや、日吉に通う東横線の車内広告を見て、すごいプロジェクトが始まるんだなと思っていましたね。

入社した頃は、すでに『キャッツ』が成功し、東京の南新宿で再演が行われていました。

『李香蘭』をめぐって

岡本 北里さんも四季のお芝居はずっと見て来られたと思います。

北里 そうですね。例えば『李香蘭』なども「支那の夜」という歌は小さいときに歌っていましたからね。おそらく浅利君もそういう歌をよく知っていたのではないかと思います。

『李香蘭』という芝居は悲劇的なところもかなりあるんですが、彼も昔を思い出しながら、つくっていったのではないかと思いますね。

吉田 『李香蘭』は91年初演ですが、私が東京で広報担当をしていた頃で、浅利さんの作品づくりの現場を近くで見ることができました。オリジナル作品を創作するのは本当に大変ですが、全力で取り組まれておられた。中国に行き、旧満州の主な都市を自分で回られ、ホテルに滞在しながら台本を執筆されていました。

浅利さんはいつも、「兵士として徴兵されて戦地に赴いた一兵卒の立場から戦争を見なければいけない」とおっしゃっていました。その人たちがどんなに悲惨な戦争体験をしたかを、我々は絶対忘れてはいけないと。

「一銭五厘」の小さなはがきで召集令状を受け取り、彼らは出征していったわけですが、政府や大本営ではなく、その「一銭五厘」を握りしめた市井の人たちの目で戦争の悲劇を考えなければいけないということですね。

北里 なるほどね。

岡本 『李香蘭』を含めて、いわゆる昭和の歴史3部作と言われていますね。

一兵卒の気持ちというと、加藤道夫もニューギニア戦線に送られて相当な苦労をしています。そういう加藤道夫の思いなどと関係しているところもあるのでしょうか。

吉田 どうでしょうか。これも浅利さんがいつも仰っていたことですが、自分の少し上の世代が出征して、皆死んでしまった。その人たちのためにも自分たちが努力しなければと。加藤さんは生還されましたが、想像を絶する苦労をされた世代の方だという思いは持っていたと思います。

岡本 加藤道夫は1918年生まれですから、15歳ぐらい上ですね。

吉田 浅利さんは、岡本さんがお書きになった「三田文学」の加藤道夫論を読んで、「若い研究者で加藤さんをしっかり論じてくれる人が出てきた」とすごく喜んでいましたよ。

岡本 有り難うございます。2010年7月に加藤道夫論を書いたのが浅利さんの目に留まって、初めてごあいさつさせていただいたのが、その年の9月の『赤毛のアン』の初日公演でした。お会いする前から大変緊張していました。それ以後は観劇後、ごあいさつさせていただくだけでしたが、その際の物腰の柔らかさが非常に印象に残っています。

浅利さんには、演出家と経営者とが、バランスよく高いレベルでミックスした、本当に稀有な存在だという思いがありましたので、訃報に接したときに、何か1つの大きな時代が終わったなと感じましたね。

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