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【三人閑談】
浅利慶太さんを偲んで

2018/12/17

劇団四季、3つの理念

岡本 それは、劇団四季創立当初からの考えだったのか、あるいはあるときから、演劇だけで食べていくのが理想だと考えるようになったのでしょうか?

吉田 創立当時、劇団の名前を決める際に浅利さんたちは、心酔していたエリオットの詩集に因んで、劇団『荒地(あれち)』にしようとしていたそうです。

それを、先輩の芥川比呂志さんに相談したところ、「お前はいつまでこの劇団を続けるつもりなんだ」と聞かれ、「できれば一生やりたい」と答えると、「『荒地』なんていう名前にすると、40になったときに困るぞ」と言われたと(笑)。それで、ポピュラリティのある「四季」を勧められたそうです。

このエピソードからも、浅利さんが昔から、演劇の仕事での自立をお考えになっていたことが分かります。しかし、草創期の四季は経済的に相当苦しかったようです。日下武史さんからも、「1杯のかけそばを分け合った」というようなお話は良く聞いていました。「自立」が実現するまでには長い時間を要したようですが、浅利さんは、常にそれを目指して劇団経営をしていたと思います。

岡本 なるほど、そうなのですね。

吉田 浅利さんから教えられた理念が3つあります。1つ目が、「演劇の市民社会への復権」です。これは先ほど申し上げたように、創立の頃、政治思想をテーマにした作品が多かった日本演劇界に対するアンチテーゼですね。劇場に来たお客さまがカタルシスを感じるような作品を上演し、市民や社会に愛され、寄り添う演劇を目指そう、という事です。

2つ目は1つ目と表裏の関係ですが、「自分たちの舞台からの収入だけで、経済的に自立する」ということです。現在でも日本では、興行会社を含めて演劇だけで収支を合わせているところは少ない。映画やタレントマネージメントなどの「本業」を持っていたり、放送、広告などの周辺産業との協業を、もう1つの収入源にしているところがほとんどです。四季はここからも自立すべきだ、ということ。

そして3番目が、「文化の一極集中の是正」です。文化、特に劇場芸術は東京に一極集中しがちなので、興行を行う側が努力し、荷物を持って全国を行脚するべきだという考え方ですね。

浅利さんは、演劇界に真の意味でのプロフェッショナリズムを確立しようとしていた。「家が3軒並んでいて、1番右が銀行員の家。真ん中は俳優の家、左側の家が商社マンの家で、みな子供がいたとする。真ん中の俳優の家だけが貧乏で良いのか。子供に罪はない。貧乏のままなら、子供は親の職業を恨んで育つだろう」というたとえ話をよくされていました。

だから、演劇を仕事にしていても、銀行員や商社マンほどではないにせよ、見劣りしない生活ができるレベルの人件費を払わなければいけないし、それが可能な劇団経営が不可欠だと、いつも話しておられました。この言葉は、今でも私の座右の銘です。

ストレートプレイからミュージカルへ

岡本 なるほど。また、1964年に、ニッセイ名作劇場、「こどものためのミュージカル・プレイ」以来、子供向けの演劇にもかなり腐心されているような感じでしたね。

吉田 そうですね。1963年に日生劇場が開場した時、当時の日本生命の社長の弘世現(ひろせげん)さんから、「戦争で荒廃した子供たちの心に、感動を与える舞台を上演して欲しい」と依頼されて始まったのが「ニッセイ名作劇場」です。東京都内の小学校6年生を無料で日生劇場に招待する、先駆的なメセナ活動でした。

当初、浅利さんはストレートプレイを上演しようとしていたようですが、研究をしているうちに、どうも台詞だけでは子供には難しすぎるようだと分かった。そこで当時、日本に輸入されつつあった「ミュージカル」という形式を取り入れたらどうだろうと思い立たれました。

岡本 最初にやったのが『はだかの王様』ですね。

吉田 まだ新進気鋭だった寺山修司さんに、台本と歌詞をお願いしました。この作品は今でも度々上演しています。現在は「こころの劇場」というスキームになり、利尻島や石垣島のような離島も含め、日本全国で毎年400公演ぐらい行っています。

岡本 ミュージカルをやり始めたきっかけというのは、それですか。

吉田 このファミリーミュージカルの創作も1つのきっかけですが、もう1つは越路吹雪さんとのコラボレーションです。

同じ頃、浅利さんは宝塚出身の大スター、越路さんと一緒に仕事をするようになりました。浅利さんが演出した彼女のリサイタルは、チケットの入手が困難な大ヒット企画でした。この仕事の流れの中で、越路さんが主演するブロードウェイミュージカルが上演された。演出を浅利さん、他の役を四季の俳優が固めるという布陣です。この経験が、将来の「劇団四季ミュージカル」の出発点になったのです。

岡本 それからストレートプレイよりミュージカルのほうにどんどん行ったという感じでしょうか。

吉田 スタートは60年代半ばでしたが、70年代まではストレートプレイの数も多かった。ミュージカルの割合が優勢になったのは、80年代からですね。やはり一番大きかったのは、『キャッツ』だと思います。

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