三田評論ONLINE

【三人閑談】
浅利慶太さんを偲んで

2018/12/17

  • 北里 一郎(きたさと いちろう)

    学校法人北里研究所顧問、2018年11月まで慶應義塾理事。1955年慶應義塾大学工学部卒業。慶應義塾高等学校2期生で浅利慶太氏の1期上。高等学校時代は文連・化学研究会に所属。

  • 吉田 智誉樹(よしだ ちよき)

    劇団四季(四季株式会社)代表取締役社長。1987年慶應義塾大学文学部卒業。同年四季株式会社に入社。2008年取締役広報宣伝担当を経て2014年から現職。

  • 岡本 英敏(おかもと ひでとし)

    慶應義塾湘南藤沢中・高等部教諭。文芸評論家。1990年慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾高校教諭を経て2002年より現職。2010年「三田文学」新人賞受賞。著書に『福田恆存』他。

草創期の慶應義塾高校から

岡本 慶應義塾高校ができたばかりの頃、北里さんが2期生、浅利さんが3期生となるわけですね。

北里 ともかく戦後の混乱期で、昭和23年に高校ができたときは日吉が米軍に全て接収されていました。それで、三田近くの三の橋にあった中央労働学園を借りて授業をやったんですね。しかも校舎が足りなくて2部授業でした。昭和24年になって、日吉が返還され、ようやく学生も協力して教室として使えるようになったのです。

当時、高校3年生は人数が少なかった。それで、学校のほうも、ともかく僕ら2年生に「君たち自身で文化団体連盟(文連)と体育会をつくれ」と言う。そして、「10人集まったら、学校は金を出す」ということで任されたのですね。それでよし、やってやろうじゃないかと、みんな燃えたのです。

私は化学研究会をつくろうと考えたんですが、友達はフェンシング部やら歌舞伎研究会をつくろうとした。そして、10人集めるというのはそう簡単ではないので、お互いに入り合ったんです。ですから、ともかく高校の2年のときは目茶苦茶忙しかった(笑)。

それで浅利慶太君が1年にいまして、彼が1番燃えていたんですね。私は2年だったので、そういう積極的なのを文化団体連盟に引っ張ってきて、「浅利、頑張れよ」というような話で親しくなったんです。

岡本 もともと浅利さんは、慶應義塾高校に入った当初は、野球部で甲子園を目指そうとしていたと聞いたことがあるのですが。

北里 中学のときは野球だったみたいですね。だけど、高校ではもうやっていませんでした。

岡本 ところが、作曲家の林光さん(故人)とか、日本フィルなどで主席フルート奏者を務める峰岸壮一さんらに誘われて、演劇部に入ったとのことですね。日下武史さん(劇団四季俳優、故人)も含めて彼らは皆、慶應普通部の演劇部だった。

北里 彼らは皆、私と同期ですが、なぜか私が非常に親しい友達は文系に多かったんですね。林光君は東横線の都立大学に住んでいまして、親父(林義雄氏)が慶應の医学部の教授だったこともあり、よく訪ねました。

岡本 そうです。すごい大金持ちで。

北里 彼のところに行きますと、ピアノを弾いてくれるんですよ。贅沢な話ですよね。林光君のピアノを聞いて、おやつを食べて話をして。

日下武史君は、クラスが一緒だったんです。彼とも話が合いました。彼は横須賀に住んでいて、1人でいるときがあるんで、「1人で寂しいときは行ってやるよ」なんて言ったら、ある日、「来てくれよ」と言う。それで、横須賀に行くとうれしそうな顔をして、いろいろな雑談をして、仲が良かったんですね。

林光君とも非常に話が合いました。それから、峰岸君は幼稚舎の同級生で同じクラスだった。文系で優れたやつが多かったんですね。

後に英文科の教授になった安東伸介君は幼稚舎でクラスは違ったんですが、目茶苦茶優秀だった。幼稚舎の集団疎開は修善寺だったんですが、我々6年生が卒業で東京へ戻るときに、お世話になったお礼に、地元の下狩野小学校で『修善寺物語』をやることを安東君が考えたんですね。安東君が上手くリードして立派な劇になって、大変喜ばれました。

加藤道夫との出会い

吉田 安東先生には、『オペラ座の怪人』の初演のときに台本の翻訳をお手伝いいただきました。劇団四季の仕事の上でも、浅利さんは安東先生をずいぶん頼りにしていたと思います。

高校では首席でいらしたそうですね。「主席が文学部に行くケースは、安東が初めてなんだ」と、よく浅利さんが言っていました。

岡本 安東伸介さんや演劇部を中心に文連にいた方々が、当時、慶應義塾高校の英語の教師として赴任していた新進の劇作家・加藤道夫に影響を受けたわけですね。

北里 私は加藤先生をあまり知らないんですね。もちろん授業は受けていましたが、個人的にお話しする機会はありませんでした。だけど、後から浅利君と話したときには、よく加藤先生の話は出てきていました。

岡本 浅利さんなどは、しょっちゅうお宅に伺っていたようです。慶應義塾高校の英語の教員が『なよたけ』を書いた加藤先生で、その人に教わるというので、安東さんや浅利さんはすごく興奮したとおっしゃっています。やはりそこが原点だと思うんですね。

加藤道夫の代表作というのは、世間的にはたぶん『なよたけ』だったと思いますが、浅利さんはどのように考えておられたのでしょうか。

吉田 『なよたけ』は、浅利さんもご自身で1度演出をされています。

しかし、上演は1970年の1度だけでした。日生劇場で開幕し、その後、全国を巡演しています。

後に四季に自由劇場ができて、ストレートプレイを積極的に取り上げることが検討された時、毎回、『なよたけ』は候補に挙がるのですが、我々が推しても、浅利さんは「この作品は上演が難しい」と言って、首肯することはありませんでしたね。

岡本 浅利さんは「難曲中の難曲」と表現されていますよね。例えば場面の転換がすごく頻繁で、かなり難しいということですね。

私も、いずれ自由劇場かどこかで見られるのかなと楽しみにしていたんですけれども、結局浅利さんが演出を手掛けた『なよたけ』を見ぬままに終わってしまったのが、ちょっと残念でした。

加藤道夫の姪御さんに芥川賞作家の加藤幸子さんがいらっしゃいます。私が『三田文学』で加藤道夫の『挿話(エピソード)』という作品を評価しましたところ、加藤幸子さんも「同感だ」とおっしゃられた。

『なよたけ』以外では、加藤道夫の作品では、劇団四季でもよく演じられている『思い出を売る男』がありますね。とにかくああいう魂の純潔というところが加藤道夫の世界なのかなと思うんです。

35歳で、ちょうど劇団四季が立ち上がったときに加藤道夫は自から命を絶たれる。1953年ですね。

吉田 そうです。四季創立の直前ですね。

岡本 遺作が『襤褸と宝石』ですね。私は『思い出を売る男』は大好きなのですが、見れば見るほど、やはり、加藤道夫は命を縮めざるを得なかったのかなという思いがします。人間というのは結局、もう少し世の中の俗なるものを引き受けて生きなければならないのかなと思うんです。

浅利慶太さん(2005年12月号『話題の人』インタビュー時)
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事