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【三人閑談】
童謡は時代を超えて

2018/03/01

  • 片岡 輝(かたおか ひかる)

    児童文学者、詩人。1957年慶應義塾大学法学部法律学科卒業後、TBSを経て執筆活動に。『とんでったバナナ』『グリーングリーン』ほか多数の童謡・合唱曲を作詞。

  • 大石  泰(おおいし ゆたか)

    東京藝術大学演奏藝術センター教授。1974年慶應義塾大学経済学部卒業後、テレビ朝日入社。「題名のない音楽会」プロデューサーなどを経て2004年東京藝術大学演奏藝術センター助教授、2016年より現職。

  • 若松 歓(わかまつ かん)

    教育音楽一筋の作曲家。1988年慶應義塾大学文学部卒業。96年NHK「ときめき夢サウンド」で編曲デビュー。『最後のチャイム』『君とみた海』など小中学生のための合唱曲や教科書の歌を多く手がける。

100年目の童謡

大石 ことしは、多くの名作童話・童謡を生み出した日本初の児童文芸誌『赤い鳥』が創刊100年を迎え、童謡についても誕生100年ということでいろいろな催しが行われています。

片岡さんはこれまで数多くの童謡、子どもの歌の作詞を手掛けてこられましたが、ご自身はどんなかたちで童謡と出会ったのでしょうか。

片岡 まさに『赤い鳥』ですね。父が商社マンだったので、子どもの頃、旧満州国の大連におりました。

父母はギターやマンドリンをやっていて、レコードもたくさんあり、その中に『赤い鳥』のレコードアルバムもあって、タイトルを覚えていないのですが、「聞いたか 聞いたかスズメのこそこそ話」という朝寝坊の子どもの噂をする歌がありました。童謡との出会いはそれが最初です。

あと「わらべうた」も母親が歌っていましたね。ヨーロッパの『Row Row Row Your Boat』とかも歌いました。どちらかといえば西欧的な音楽が多い環境で育ったと思います。

中学1年生で日本に帰ってきて、そこで初めて日本の民謡やわらべうたに触れました。ですから、これは日本の子どもの歌や音楽のルーツとして理解しなければいけないと思って関心を持つようになりました。

私は子どものテレビ番組をつくりたいと思ってTBSに入ったのですが、まだTBSは試験放送が始まったばかりで、テレビ要員はあまり必要ないということで、ラジオのほうに配属されました。

そこで子ども向けの番組を担当することになり、童謡番組で武満徹さん、湯浅譲二さんなど、後に現代音楽を担ったそうそうたる方たちに童謡の編曲を大量に頼んだりしていました。

大石 ご自身が子どもの歌をつくられるきっかけは何だったのですか。

片岡 湯浅さんや谷川俊太郎さんたちと組んで、子どものためのミュージカルをつくったりするなかで、自分も書いてみようと思って詩を書き始めました。

TBSのときは自分の詩を曲にすることはしなかったのですが、フリーになって3年目くらいのときに、NHKで当時『おかあさんといっしょ』の中に「うたのえほん」というコーナーがあって、そこのディレクターから「歌をつくりませんか」ということで初めてつくったのが『とんでったバナナ』です。作曲は桜井順さんで、私と同期で経済学部出身でした。

バナナが飛んでいって、一生懸命、食べられないように逃げて行って、最後に船の上で昼寝をしていた船長がポカンと口を開けているところに飛び込んで、食べられちゃったというナンセンスな歌ですよね(笑)。

若松 今でも子どもたちに人気のある歌です。

片岡 この曲をつくった頃、実は自分の子どもが3歳くらいでした。当時放送されていた子どもの歌番組を聞いていて、どうも日本の歌は西洋の歌に比べるとまじめで、お行儀がよすぎるのではないか、と思ったんです。

そこで、あえてバラードのような長いナンセンスな歌にしました。子どもの歌は3〜4コーラスが定番でしたが、これは6番まであります。

そうしたら、NHKの幼児番組の責任者から、主人公が最後に食べられてしまうのは残酷なので、何とかハッピーエンドにしてくださいと言われたんですね(笑)。

バナナを食べて残酷と思う子どもはいないと思って、担当のディレクターだった小森美巳さん(塾出身の作曲家・小森昭宏さんの奥さん)と相談して、「このまま行きましょう」と放送したら、非常に評判がよかった。以後、いっさい何も言われなくなりました(笑)。

子ども時代の体験

大石 自分が子どものときにどんな童謡の体験があったかと言われても、これというのを思いつくことはないのですが、でも刷り込まれているものというのはやはりあって、例えば、「好きな童謡は何ですか」と言われれば、『月の沙漠』とか『雨降りお月さん』とかが好きですね。これも子どもの頃に聞いたからということではなくて、仕事でいろいろな童謡に触れるなかで、いいなと思った曲です。

以前、テレビ朝日にいたときは、若松さんのお父さま(正司氏)がいらっしゃった日本童謡協会が毎年開催していた『全国童謡歌唱コンクール』という番組の担当になって、いろいろな童謡を聴いたり取材もしました。

2年前からタイトルが「童謡こどもの歌コンクール」に変わったのを機に、審査員のまとめ役もさせていただいています。

若松 私は父も作編曲家で、私が生まれた昭和40年代はテレビでも音楽番組はすごくいっぱいあったし、大手レコード会社の録音の仕事も今の100倍くらいあったと思います。

テレビをつけると、ときどき父が、自分が編曲した曲の指揮をしていたりして、そういう番組を見たり、父が作編曲したいろいろなジャンルの音楽を聴いて育ってきました。

特に小学校時代、土日は父がNHKやレコード会社で録音することが多くて、だいたい連れて行ってもらいました。

スタジオミュージシャンが緊張感をもって演奏するスペースの中に僕も入れてもらったり、NHKホールの録音でも公開録画でも、コンマスの横や指揮者の後ろとか、いいポジションに座らせてもらっていました。贅沢な環境だったんです。なので、小学校・中学校の音楽の時間というのは、僕にとって1%くらいの影響しかなかったと思います。99%は私生活での現場の音楽、響きの中で育ちました。

大石 何ともうらやましい環境ですね(笑)。

若松 身内褒めで恥ずかしいのですが、父は本当に素晴らしいアレンジをするんですよ。特にストリングスアレンジでは、僕はいまだに父が日本一だと思っています。それが子どもの頃から身近にあって、名曲童謡、唱歌・叙情歌を含めて、なんて素晴らしい作品なんだろうと自然に思うようになりました。

でも、よくあるパターンで、中学生くらいになってくると、童謡よりもロックやポップスへの関心が高まりました。結局大学を卒業するまで童謡からは少し離れていました。

大卒後6年ほどサラリーマンをやり、脱サラして自称作曲家になって、コツコツいろいろな編曲の仕事をいただくうちに、童謡のお仕事をいただくようになったんです。

実際にやってみると、これがすらすらできるんです。駆け出しの頃、流行のJポップ曲を合唱アレンジする仕事を随分やりましたが、それだとぴたっと筆が止まってしまう(笑)。

「やはりこれだよな」というのを少しずつ思い出しました。童謡を自分なりの形でライフワークにしたいと思って、新しい童謡を書くというよりは、名曲童謡をもう1回、教育音楽の現場の先生や子どもたちに知ってもらいたいと思って活動しています。

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