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【三人閑談】
少数言語を旅する

2018/01/01

複言語使用の現状

井上 デイヴィッド・クリスタルというイギリスの言語学者によると、世界中の3分の2ぐらいの人たちは2言語を使っていると言っています。日本はそうでもないですが、現地の言語と英語の併用状況がある国は世界にいろいろな例があります。そういう状況では、英語にいわゆる土着の色が付いてくる。

例えばシンガポールのようなところだと、教育レベルが高度な人たちはかなり英米的な英語に近い英語を話す。一方で、町場に行くと本当にシンプルな英語です。そういうことが、世界のいろいろなところで起こっていると思います。

ブレグジット(Brexit)で、イギリスがEUを出た後に、英語がEUの言語であり続けるのかどうかなども結構話題になったりします。その一方で、「ユーロイングリッシュ」と言って、EUの会議場で使われている英語も、いわゆる標準的な英語から離れて慣用化されていることが研究されています。だから、イギリスがいてもいなくてもあまり関係ないのではないか。これもある意味でグローバル化の一面としての現象かもしれません。

藤田 今、井上さんが言われたことは、スペイン語でも起きています。

スペイン語とアメリカ大陸の先住民言語は、もう500年以上接触を続けています。もともとスペイン語しか話さない層の人たちも、先住民言語の言葉を単語として取り込むことはしてきたのですが、先住民言語とスペイン語のバイリンガルの人たちは語順を変えたり、教科書のスペイン語とは少し違う動詞の活用の使い方をするなど、文法としても先住民言語にもう少し近くなったようなスペイン語を使っています。

先住民言語との接触で変化してきたスペイン語の研究も、スペイン語学の1つの分野として認めよう、そういうスペイン語があることを積極的に認めようという動きが、先住民言語の復権と同時に生まれつつあります。むしろ、そういうスペイン語は、先住民言語を勉強しよう、理解しようと思ったとき、入口の役割を果たすものにもなると思います。

井上 なるほど、スペイン語が橋渡しの役割になる。

藤田 ただ、やはりスペイン語は非常に勢力が強いので、モノリンガル(先住民言語のみを話す人)はどんどん減っています。今ではアンデスでは80代以上のおじいさん、おばあさんの世代にしか、モノリンガルはほぼ見つからない。しかも、先住民言語とスペイン語のバイリンガルの層も、徐々にスペイン語のモノリンガルに移行しつつあります。

アンデスではまだ人口が大幅に増え続けているので、絶対数としてのアイマラ語の話者も増え続けているのですが、徐々にスペイン語話者の比重が高くなっているという状況に変わりはないです。

そういう中で、いわゆる「アンデスのスペイン語」が安定した言語として続いていくのか、先住民言語がこれからも話者数を保ち続けられるのかは、いまだに予断を許さない状況です。

そもそも、より低地の言語では、話者数が10人とか15人という言語がいくつもあります。そういう言語はもう消滅するのではないかと多くの専門家が言っていますね。

井上 学者によって違いますが、100万人いないと維持できないという学者もいますし、30万から50万ぐらいで維持できると言っている学者もいます。でも、15人というのは危機と言ってもいい状況ですね。

だいたい世界の言語は7000と言われていますが、平均すると一言語あたりの話者数はたぶん80万人ぐらい。けれども、中央値は7000ぐらいです。つまり、話者数が10万人以下の言語がたくさんある。いま話者数では中国語、英語、ヒンディー語、スペイン語という順番で、日本語は9番目ぐらいですが、上位8位までの言語で世界の人口の40%ぐらいを占めています。圧倒的多数が世界トップ10の言語を話していて、しかもトップ10の中にはインドの言葉が3つぐらい入っています。また、中国語というまとまりも言語学的にはかなり難しい。「中国語」は1つの共通語であり、公用語ですね。

佐藤 インドの言語ではヒンディー語の他にマラーティー語も多いですね。ムンバイを中心に話されている言語です。あと、テルグ語は3年ぐらい前に、当社から初めて出版させていただきましたが、話者約8500万人で、これもトップ15には間違いなく入ってくる。でも、日本人でテルグ語という言語があることを知っている人も少ないと思います。

ただ、インドの方々は英語を流暢にしゃべりますし、テルグ語を母語としている人は、IT関係の仕事の方が多く、日本にも数多く来ていますね。

少数言語を保存する

藤田 大学書林さんはアイヌ語についても、佐藤知己先生の『アイヌ語文法の基礎』を出されていますね。

佐藤 ええ、北海道大学の。

藤田 この本は、白沢ナベさんという千歳のおばあちゃんのアイヌ語をベースにした文法書です。アイヌ語も、少なくとも研究者が把握している範囲では、日常生活でほとんど使われることがなくなってしまいました。ただ、周りの人たちがアイヌ語で会話をしていたという時代のことを覚えている人たちが、今はまだある程度、私より若干年上の世代で何人も残っています。また、自分でアイヌ語を後から勉強して身に付けた私の同世代や少し年上の方々には、やはり自分の子どもにアイヌ語を教えておこうという方もいらっしゃいます。

自分がある程度話せれば、子どもに対して話すこともできるわけで、今どこまでアイヌ語で生活が送れるかという試みも行われています。あるいは、ご年配のおばあちゃんたちで、それほど流暢にアイヌ語で会話をすることがなくても、例えば不完全な表記で筆記されたアイヌ語の単語を見ただけで、完全な発音でアイヌ語を読む方もいる。それが自分の言語なんだ、自分の言語となるはずだったんだと思っている限り、さまざまな形でその言語を続けていこうという努力はできるものなのだなと思います。

井上 例えば東大の角田太作さんという方は、オーストラリアのアボリジニの研究をなさっていて、その言語は話者がいなくなったのですが、その言葉を復活したいという動きが地域で起こって、角田先生がいろいろな資料を持ってそこに行かれて、復興活動に寄与されたりしています。

ですから、大学書林さんのお仕事もすごく価値があるわけで、いろいろな研究者が資料や図書を残しておくことで、予想しなかったようなニーズが未来にあるかもしれないし、実際にそういうことが今起こっているように思います。

今は英語が世界のグローバル言語であり、英語中心の世界観で世の中が回っているところがありますが、これからどんなふうに変わっていくかは分からない。例えば数百年後、ケチュア語の世界観が人類を救うかもしれない。そういうことが、起こり得ると僕は思っています。その意味で、人類全体のリスクヘッジとして、いろいろな言語を残していくことは重要ではないかと思いますね。

佐藤 おっしゃるとおりですね。私どもの会社の仕事もまさにそれとつながるところにあって、いろいろな言語を研究される研究者が、今後そして次世代のためにしっかりと研究を残していけるような社会にしていかないといけないと思っています。

井上 名誉教授の鈴木孝夫先生がよくおっしゃっていますが、英語の時代はもう終わりつつあって、例えば「もったいない」のような英語にない概念が、次の時代では意味を持つようになるということですね。

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